番外編:自分を救うのは感謝からはじまる自分(改訂版)

これは、2016年10月31日に載せたブログを所々改訂して載せたものになる。あらためてお読みいただけたら、幸いに思います。

 

年齢だけは増していくが、人間が出来ていないものだから、日々、迷ったり、悩んだり、諸々の課題がなかなか尽きない。つい、孤独感に襲われることもしばしば。どうやらそうは見えないらしいが・・・、まあ、滅多に見せたりもしないのだが・・・。

 

10日ほど前のライヴでだったか、ライヴ中のトークとして曲創りについて簡単に話をした。すると、続く同日の出演者も、それぞれの曲創りについて語ってくれた。

その中で、共通して語られていた曲創りのパターンの1つとして、

「あるとき、曲(または歌詞)が降りてくることがある。」

という話があった。

クリエイティブなお仕事や作業をする方は音楽やアート系でなくても、物創りされている方や様々な開発などに携わっている方も体感されるようなことかと思う。少しスピリチュアルっぽい話に感じられるかも知れないが、感覚的にはそうした感覚だ。

 

ここで、先日のブログ「歌う準備、ストレッチなどはしない」の終盤に書いたことにも触れさせてもらう。「人はそれぞれ違うのが自然だ」と書いた。表面に見える姿、表現方法、感じ方、物事への対処方などは、人それぞれ違うのが自然ではないだろうか。「普通の人」、「人並み」というのは無いと考える。

ところが、この表面のレベルで、「皆と一緒・同じ」ということを求めすぎる妙な集団心理が働きやすくなった時代にあるとも感じる。ここ約15年くらいのネット社会になってからは特に。ネット社会に人はまだまだ慣れていないのだ。慣れている振りをしている者も多いのではないか。だから、一時、あるいは瞬間的に、ここに入れなかった感じを抱いた者がここに囚われて、「人それぞれ違って良い」、「人それぞれ違うのが自然だ」ということを忘れて、勝手に孤独感に苛まれたり、もっと過ぎると孤立してしまう。こんなことに陥りやすくなっていることもあるのかも知れない。

 

勘違いしないでもらいたい。協調性や人々の共有を否定しているのでは決してない。むしろ、協調性、共有の意識は大切だと感じている。

 

「あるとき、曲(または歌詞)が降りてくることがある。」に話を戻そう。

曲創りには自ら絞り出すようにして形にする場合もある。だから、こうした感覚は別モノで、むしろ、特別な場合の感覚だ。

私はこの感覚を、こう受け止めている。

「とてつもなく大きな存在」からのメッセージを受け取っているのだと。「あなたにメッセージを届け預けるので、あなたの表現で他者に伝えて届けてみなさい。」と。やっぱりスピリチュアルな感じか、または何か宗教的な感じに思えてしまうか?そんなつもりはないが、感覚としてはこうなのだ。

気にせずに書き続けるが(ホントは少し気にしながら(汗))・・・、

 

自然現象、遺伝子情報、地球、宇宙の仕組みなどを想うと、決して人間の及ばない「とてつもなく大きな存在」があると思えてくる。

この「とてつもなく大きな存在」から発せられたメッセージを、例えば曲創りをしている者がメッセージの一部を分けてもらって、各自の表現方法で他者へ音楽・曲として伝え、届けているように思えてくる。決して、自身の力だけで音楽・曲ができたとは思えない感覚のときがあるということだ。

だから、こうして、曲・音楽が出来上がったときは、メッセージを分けてもらったことへの感謝の想いが同時に湧き起こってくる。

 

それで、想う(想像する)。

何もクリエイティブな作業をしている人だけでなく、人は誰も、深い深いところでは繋がりあって共有しているのだと。遺伝子、自然、地球、宇宙など・・・この深いレベルでの協調性や共有感を、本来、人は誰もが持ち合わせていると。

 

しかしながら、現在、こうした深いレベルでの協調性・共有感が急速に薄れつつあるように感じる。あらゆる問題が引き起こされているようにも感じる。

 

話が横道に外れそうでもあるが(一緒に毒も吐きそうだが・・・)、

例えば、行き過ぎた地球環境破壊であったり、それが更には異常気象をもたらしていたり、食料事情の悪化にまで影響して、人類は人類自らの首を絞めているかのようにも感じる。少し話を拡げ過ぎたか?

ならば、すぐ近くで起きている深刻な社会問題だ。人を人して扱わないような雇用の仕方をして利己だけを目的とした企業が「ブラック企業」、「グレー企業」と言われながらも、現実には多くがまかり通っている。「ワーキング・プア」さえも生み出しているこの時代・社会の深刻さ。

本来の深いレベルでの協調性・共有感の薄さからに思える。子育てや教育などにも様々な問題を引き起こしているように感じてならない。

やはり、少し話が飛躍し過ぎたか・・・。

 

繰り返すが、それでも本来は繋がっていると思えるのだ。こんな私にも「あるとき、曲(歌詞)が降りてくることがある。」のだから。

(実際、人々が深いレベルでの協調性・共有感をもつには、どうしたら良いのか・・・、で、この文章は無責任か?)

 

もしも、日々、悩み、迷い、ときに孤独に思える人(自身を含めて)が、このブログを読んでいるとしたなら、こう考えてはどうか?

 

表面上に目に見えるレベル(物事への感じ方なども含めて)は、他人と違っていても良い。姿などが同じようでなくても、必ずしも同じ考え方でなくても構わない。むしろ、人はそれぞれ違うのが自然だと。

 

ここで少しだけ念のため加えておくが、「ただし・・・」だ。他人との違いを表現する方法として、他人を傷つけるようなことが勿論あってはならない。深いところでの協調性・共有感が欠如していると他人を攻撃したりもする。が、こんなことはあってはならない。

 

話を戻す。

だけど、孤独感などに苛まれたり、孤立してくると、自分で自分のことが嫌いになってしまいがちで、世界を眺める視界まで狭くなってしまうことがある。

だから、まずは、自分の住んでいる地域にある景色や恵であったり、次に自然や地球、そして宇宙の営みへと、少しずつその視線先や視界を拡げてみる。その中で小さな一欠片が生かされているのだと。それらを含めて、深い深いレベルでは繋がっている意識や感謝をすることから、先ずは、はじめてはどうか?

 

感謝の想いは自分を好きになることも想い出させてくれる。そしたら、自分を好きでいられる時間を少しずつでも増やせるように、目の前を、感謝と共に、ただただ生きていくことだ。

それから、一人、二人であっても、たとえ陰ながらであっても、前へと歩もうとする人のことは誰かが必ず見ているものだ。その人達の存在に気付いたり、その人達への感謝も想い出させてくれるかも知れない。

 

①少しずつ視線先や視野を拡げて広く大きなものを対象に、感謝の想いをもつ。

②願わくば、その中のたった一欠片である自分を好きになる。愛おしく想う。

③目の前をただただ生きて、自分を好きでいられる時間を少ずつ増やせるように歩み続ける。

④一人、二人であっても、自分を見くれている存在や感謝する人は本当にいないのか、いま一度、見渡して想い起こしてみる。気付いたら感謝だ。

⑤まあ、なかなか簡単じゃない。だから、また自分が嫌いになったら、何回でも、いつでも繰り返しても良いと思っておく。

 

何も問題なく生きている人など何処にもいない。どうにか、こうにかであっても、目の前を生きることなのではないだろうか。それには、「感謝」は必要だ。

冒頭に書いたが、年齢を重ねてきているだけで人間が出来ていない。そんな者の現在のところでの思いだ。長々と書いてしまったが、参考にもならないか(笑)。