「今日の一曲」の第83回です。
先ずは、公開ブログの文中ではございますが、この度の、大阪北部を震源とした大地震と西日本地方を襲った豪雨のこれら災害におきまして、犠牲となられた方々のご冥福をお祈り申し上げたく存じます。
併せて、被災された地域の皆様へ心よりお見舞い申し上げます。
さて、今回、「今日の一曲」シリーズの83枚目としてご紹介する盤とそこに収録された一曲は、第77回(2018/03/19)でもご紹介した2枚組CDのうち、もう一枚の方からで、ご紹介するその曲にハマったのは、丁度、“夏の”ライヴツアー、これに初めて挑んでいた最中でした。当時を思い返してみると、「ゲリラ豪雨」などといった言葉を頻繁に聞くようになったのもこの頃からだったように思います。
そんな次第で、今回はこれら様々に絡めて、諸々語らせていただきます。
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《イントロダクション》
~第77回をおさらい~
「今日の一曲」シリーズの第83回として、今回ここでご紹介する曲は、実は、第77回(2018/03/19公開)でもご紹介した・・・フランスを拠点とするスーパー木管五重奏団・・・「レ・ヴァン・フランセ(Les Vents Français)」の2枚組CDからになる。が、今回は、2枚組CDのうち、第77回でご紹介した盤とは別の、もう一枚の方の盤に収録されたそれらの曲の中から、これをご紹介させていただきたく思う。
そこで、恐縮ながら、私が、彼らを知ったきっかけであったり、その2枚組CDと出会った経緯であったり、とまぁ、こうした事柄についてはその第77回で既に語らせていただいたので、今回は、これらの内容については極力省かせていただきたく思う。ゴメンなさいm(__)m。
とは言え、極々簡単に、今回の内容と関連する部分だけを、ざぁっと、おさらいすると。
当時は、私もライヴツアーを始めてまだ2年目だった。二度目のツアーとなった「冬から春へのライヴツアー(2012年2月末~4月上旬)」を何とかやり終えて、自宅に戻って数日してからだったように記憶している。その、木管五重奏団「レ・ヴァン・フランセ(Les Vents Français)」の2枚組CDを購入したのだった。
このときは自宅から比較的近いところにある・・と言っても電車に乗って20分くらいは掛かる・・・、売り場の広い割と大きなCDショップでこれを手にした。それは自身のCDの制作についても丁度色々と考えていた時期でもあって、CDジャケットのデザインや、どんな音楽のCDがどんなふうなレイアウトで店内のラックに置かれているのか、といった市場調査らしきことも含めて立ち寄ったときで、店内をあちらこちらとウロウロ歩き回るなかで偶然に見つけたのだった。18~19歳の頃から主にクラシック音楽を通じてフランス人作曲家の作品やフランスで活躍する演奏家にも関心があった私は、だからなのか、店内のCDラックに置かれたこれが視界に入ると、途端、そこへと進んだ。
「へぇ、あの評判の5人がメンバーの木管五重奏団って、これのことかぁ」
といった感じで。あっ、いや、声に出したわけではなく胸裏でそう呟いたはずなのだけれど。ん? 僅かに声に出していたかな。ハハハハハ・・・。
この2枚組CDは、その一枚が、・・・第77回でご紹介した・・・「フランスの管楽作品(全5作品)」を集めた盤となっていて、もう一枚が、・・・今回ご紹介する方・・・「20世紀の管楽作品(全5作品)」を集めた盤として、きちんと2つに分けられて編集されている。演奏者は、エマニュエル・パユ(フルート)、フランソワ・ルルー(オーボエ)、ポール・メイエ(クラリネット)、ラドヴァン・ヴラトコヴィッチ(ホルン)、ジルベール・オダン(バスーン)の5人で、いずれも、フランス出身であったり、フランス国内の学校で音楽を学んでいた経験があったり、フランンス国内を中心に音楽活動を行っていたり音楽教育に携わっていたり、といったメンバーだ。ちなみに、木管五重奏として用いられる楽器の一つが“ファゴット”ではなく“バスーン”であるのも、“フランス風”であるこの木管五重奏団の特徴の一つだ。
ってな具合で、“おさらい”はこのくらいにしておこう。
《初めての夏のツアー》
2012年の夏、私は3度目のライヴツアーに挑んでいた。が、「夏のライヴツアー 2012」と題した、その“夏”に行うツアーはこれが初めてだった。
ところで、経験がまだ浅いときというのは、概して、一寸したところでの詰めが甘い。このときのツアーの日程は、それはお見事って言うくらいぴったりに、ロンドン・オリンピックが開催されていた時期と重なってしまっていたのだった。
実際、ライヴ会場に足を運んで来てくださるお客様の中にも、一部、「ライヴも好いけど、オリンピックも・・・ねぇ~」といったふうな少々落ち着かない雰囲気が漂っていた。が、ツアーを巡る私自身も、正直、オリンピックの話題が気になってしょうがないでいた。エヘヘ・・・。だからと言って、テレビなどでオリンピック放送を視聴しながらツアーを巡る、などといったことは当たり前に無理なことで、時間的な余裕もないし、謂えば、そんな身分であるはずもなく。また当時は、スマホを持っているなども一部の人で、まして私なんぞは時代の先端をいくそういった類の人間でもないわけで。それで、たまたま街中を歩いている途中に電気店でもあれば、そこの店頭に並んだテレビ画面を通りすがりに覗き見して、でなければ、電車での移動中に、車中のドア上にある、あの横長の幅の狭い電子案内板に表示されるテロップ(?)を眺めるなどして、ほんの僅かだけのオリンピック情報を少しずつ知る程度に、とまぁそんなふうに自身を納得させて、その“夏”のライヴツアーを続けていたのだった。
その2012年の夏のときもそうだったけれど、ツアーを始めたばかりの頃は、電車で長い距離を移動する際は、大抵、ヘッドフォンを装着した上で携帯音楽プレーヤーに収めた音楽を聴きながらだった。尤も、知らぬ間に眠ってしまっていることも多かったのだけれど。で、この携帯音楽プレーヤーに入れておいた音楽の殆んどがクラシック音楽というか、もう少しだけ正確に言うと、管楽の、あるいは弦楽の、現代音楽だった。何となく余計な思考を働かせないで済む、「あぁ、楽だなぁ~」と感じる、そんな感覚があってこうした音楽を選曲していた。
そして、2012年の夏のツアーを前に様々これを準備している最中、買ってきたばかりのそれを気に入って何度も繰り返し聴いていたのが、「レ・ヴァン・フランセ」の2枚組CDだった。
先にも少し語ったけれど、2枚組CDのうち、一枚は「20世紀の管楽作品(全5作品)」の盤で、ここには、リゲティ、ツェムリンスキー、ヴェレシュ、ヒンデミットなど20世紀を代表する現代音楽作曲家たちの作品が並んでいて、収録されている楽曲と演奏のどれもが面白いのだった。
当然、ツアーに持ち歩く携帯音楽プレーヤーにも、これら全てを収めた。
こうして、初の夏のツアー、「夏のライヴツアー 2012」では、東京都内からスタートして、横浜、静岡、そして関西方面へと、延べで8ヵ所を巡っていった。このときも電車での移動が主で、やはりその移動中は、事前に携帯音楽プレーヤーに収めておいたこれら音楽を聴きながらだった。そう、途中途中ではロンドン・オリンピックの様子も気にしながらね。
《夏にハマった、夏の音楽》
するとこの夏のツアー中、移動を重ねていくうちに、ついつい自然と選曲することが多くなっていった曲があった。
サミュエル・バーバー作曲、「夏の音楽 作品31」だ。
まぁ、簡単に題名にも影響されて、夏気分を味わっていたい、というだけの、その程度のことであったのかも知れないのだけれど。それにしてもだ、2012年の夏、特にライヴツアーで各地を巡っていたその間では、私はこの曲にすっかりハマってしまったのだった。
サミュエル・バーバー(1910~1981年)はアメリカを代表する現代音楽作曲家のひとり。私がライヴツアー中にハマってしまった、「夏の音楽 作品31」は、彼が40歳代前半のときにデトロイト室内楽協会からの委嘱で作曲した作品で、1956年の3月にデトロイト交響楽団の首席奏者たちをメンバーに編成した木管五重奏団によって初演された。
曲名からして“夏”をイメージさせてくれる曲であることは実際にもそうなのだけれど、陽の光が眩しく輝き届く夏、というよりかは、どちらかと言うと、夏の暑さに気怠い憂鬱感漂う、そんな印象の曲だ。
曲全体は、オーボエがゆったりと奏でる旋律を中心に、フルート、クラリネット、ホルン、バスーンの4つの楽器がそれぞれ別々の旋律を奏でながらもこれに複雑に絡み呼応しながら進行していく、といった感じだ。そのオーボエが主に奏でる旋律には、アメリカ的な幾分かジャズっぽさを感じる・・・ガーシュインの「サマータイム」にも多少似ている・・・フレーズ感があって、これが他の楽器とも呼応し合うことで、より一層、夏の気怠い感じが強調される。それでも、曲の途中では、時折、恐らく高度なテクニックが必要とされるであろう動きの速いスケールを、各楽器が次々に奏で繋いで魅せたり、また別の箇所では夏のキラキラした感じの、・・・例えるなら、公園の噴水の周りに集まった幼い子どもたちが水遊びをして燥いで(はしゃいで)いる・・・そんな情景も覗かせてくれたりと、所々で起こるこうした変化の具合が曲全体の進行に面白みを与えてもくれる。が、これらはそれぞれ、あくまでもほんの一時のことで、やはり、夏の気怠い感じの、これの方が曲全体の多くを占めている。
でも不思議だ。この曲を繰り返し聴いているうちに、気怠い感じのこれが、重過ぎもせず、嫌な感じに思えなくなってくる。徐々に心地好い気怠さへと変わっていくのだった。もし、この曲の題名を知らずとも、夏の暑さにもこれに静かに身を委ねて過ごす・・・夏の暑さにじわり汗ばむそれを拭いながらも、ゆったりとサマーチェアに身を横たえて寛ぐような・・・そんな情景が自ずと浮かんできそうだ。
《夏は、ゲリラ豪雨も考慮に》
そう謂えば、2012年の夏の、この頃からだったように想う。「ゲリラ豪雨」という言葉のこれがよく聞かれるようになったのは。
この初の夏のライヴツアー中も、「ゲリラ豪雨」、これに出くわすことが何度かあった。ただ、私の場合はラッキーで、「ゲリラ豪雨」と遭遇しても、移動中の電車車中にいるときか、そうでなければファミレスなどに入って食事兼休息中のときで、背中に背負ったギターケースをびしょ濡れにさせてしまうなどといったこともなく、謂ったら、「ゲリラ豪雨」を上手く搔い潜るかのようにして、無事、全行程を予定通りに運ぶことができたのだった。
でもこれも、たまたま、という感じだった。ほんの僅かにでも「ゲリラ豪」と遭遇するそのタイミングが違っていれば、目的地へと時間通りには移動できなかったかも知れない、ライヴそれ自体もできなくなっていたかも知れない、とそういった間一髪のケースも実際にはあったわけで。
以来、その後は、夏ならではのツアー行程を考えてスケジュールを組んでいる。それでも、ここ最近の、あまりに不安定な気象のこれに対しては、万全などといった対策はまずもってないのが本当ところで、オリンピックなどの大きなイベントに注意を払いながらスケジュールを組むことよりも、こうした気象の不安定さを考慮しながらのこれはかなり厄介だ。そんなことで、近年、夏のツアーは、ますます難しくなってきている。
《皆で、本気になれるか?》
地球規模における「気候変動問題」や「環境問題」のこれへの“人類”としての対応は、現時点においては殆んど成されていないに等しい。それぞれの国やそれぞれの国の主だった立場にある人間の思惑ばかりが優先されているように思えてならない。
ん? 悲観的すぎるか?
日本国内でも、「自然災害への備え」やら「減災に向けた取り組み」については、これに積極的に取り組んでいる地域・自治体ではそこの住人に色々と工夫のある呼び掛けもされているようだけれど、しかしながら、国レベルでの対策や対応はこれら関係機関が掲げているその目標にまったく達していないのが実情だ。これまでに経験してこなかったような自然災害の、その甚大なる被害を受けた後の後付け、これの方ばかりに追われてしまっている始末だ。
加えて、小・中・高校などの教育機関による教育も、市民レベルでの教育も、これらにおいては情報や知識の面でも、思考力の面でも、実践的対応力の面でも、これらを身に付けるのに土台となるべき事柄のいずれもが現状に則さないまま、必要な中身を欠いたまま、ほぼこれを放置した状態のままであるため、日本の国民全体も未だこれへの認識が薄い。
このままでは、気候変動問題や環境問題への無対応や無関心によっても起こる、こうした自然災害・・・いや、問題があるのを分かっていながら対策を放置しているのだからその原因の一部は“人災”と言うべきかも知れない・・・は、ますます頻度を高め、その数は世界各地でも日本各地でも増大の一途を辿ることになるのではないか。そして、これら災害による人々が受ける被害や損失もまた・・・それは個人や地域に止まらず、国家におけるその社会的な面でも経済的な面でも・・・ますます甚大なものへとなっていくのではないだろうか。
ん? やはり、 悲観的すぎるか?
自分の身は自分で守るしかない、のカモ。
ならば、と、こんな意見もあるかも。グローバルな現代社会にあるのだから、市民レベルからでもこの問題に危機感を抱いている人たちどうしが世界中で繋がっていって、これら問題の解決に向けて協力し合えばいいじゃないか、って。
ぅん〜、こうした試みに反対はしないし、意味が無いとも思わない、が、さて・・・。
現実、“国(=各国政府および政府機関が管理・掌握しているモノ)”という枠(境界)は、かなり強固な枠組み(境界線)に思える。この“国”というヤツそれぞれが自らその枠組み(境界線)を越えて、真剣になって世界中で一斉に取り組まなければ、気候変動問題や環境問題といった地球規模の問題は、結局のところは、解決の方向へと動いていかないように思う。人類のその人々にある“観念”が、問題の解決にあたって、ある程度でも一致した方向を描き出せるのか? これには現実、やはり、一つひとつの国の、その“国”という枠の力が大きく影響を及ぼすのかと、そんなふうに考える。
気候変動問題についても、環境問題についても、その対応が急務であると言われているのには、ここ20年くらいうちに世界中で以って何等か一致した方向で具体的に行動を起こさない限り、地球の環境は著しく激しい変化にさらされ続ける、とされている点にある。いま地球上に生きている生物・・・人類も含めて・・・すべてにとって生き難い、あるいは生き残り難い世界へとなっていく、というこれにある(*こうした提言のすべてを鵜呑みにしてもいけませんが、現時点では比較的信頼できる情報の一つとしてこれを受け止めています(私個人の解釈です))。
そう考えると、これらの問題に関しては、自分(あるいは市民レベル)で、“できること”と“できないこと”ってぇのが、どうしてもあるように思う。
もちろん、先ずは、人類皆がこれについて真剣に“考える”ことであり、個人や市民レベルであっても、考えつく限りの“行動”を一つひとつ起こしてこれを続ける、そういうことからなのだとは思う。グローバル社会とは言っても、物理的な面ばかりが急速に発展を遂げているだけで、精神的な面では未だグローバル社会と言うには程遠い、ここから動かしていくのだから。
だけど、これだけで通用するような事柄なのか? 実際に間に合うのか?・・・もちろん、すべてを人類の都合の良いように、ということを言っているのではないよ。それはあまりに傲慢だろう。自然災害をも生む“人災”の部分のこのことを指して言っている。・・・といった点を考えると大いに心配になる。
いや、私個人はツアーをスムースに巡れてライヴができればそれで好いのだけれど。“心配”とは、未来ある子どもたち、これから生まれてくる子どもたちのことだ。それを大いに心配しての、今日この頃だ。
《肌で感じる、これを考える》
おっと、本題から随分と逸れてしまったような・・・。
いやいや、いつものことだ。
だけど、ライヴツアーを計画したり、実際にツアーを巡っていたりしていては、自身の肌で感じる色々を思うと、こんなことを考えてしまう私めがいることも本当なのだよねぇ。
サミュエル・バーバーが描いた「夏」、1950年頃から1960年頃にあった夏の、そうした心地好い気怠さを感じられる夏は、現実、現在に至っては地球上の何処にも存在し得ないのかも知れない、なんてね。
でも、ひょっとすると、この後10年も経たないうちには本当にそうなるカモよ。
最終的には、地球のその自然が起こすこれには、人など、どうしたって抗えないのだから。自然が起こすこれに従うしかない、とは思うけど。
が、一方で、“考える”こと、そこから“行動”に移していくこと、これも、私は続けていきたい。
だって、この肌で感じてしまっているのだもの、ね。
「今日の一曲」の第83回、今回は、木管五重奏団「レ・ヴァン・フランセ(Les Vents Français)」の2枚組CDから、サミュエル・バーバー作曲「夏の音楽 作品31」を取り上げて、これに絡めて諸々語らせていただいた。
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