今日の一曲 No.102:モーツァルト作曲「ディヴェルティメント ニ長調 K.136」(小澤征爾& サイトウ・キネン・オーケストラ)

「今日の一曲」シリーズの第102回です。

今回は、前回の第101回と関連して、「このことにも触れておきたいなぁ~」といった思いもあってラックから取り出してきたCDを、この「今日の一曲」シリーズの102枚目の盤として、そこに収録された一曲とともにご紹介します。

また前回に、「その年の夏は『とてもとても暑い夏』だった」と繰り返し書いた、我が子(長男・第二子)が生まれたその年の夏の出来事についても、前回からの続編としてこれを語らせていただこうかと。ですが、前回をお読みでない方にも話の流れがおおよそ分かるように、と思います。

では、そんな具合に、今回もまた諸々語らせていただきます。

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《前回を振り返りながら(家族編)》

先ずは前回の内容を振り返りながら、でも、少~しだけ、話をその先へと進めさせていただきたく思う。

 

“その年の夏は『とてもとても暑い夏』だった”というのは1992年の夏のことで、前回の終わりに触れた話のこの頃には、産後に引き続き病院で療養していた妻もその生まれてきたばかりの長男(第二子)と無事に退院をして、一緒に自宅に居た。そこでは、妻と2歳に満たない長女と私も3人でベビーベッドの中を覗き込んでは、生まれたばかりの赤ん坊(長男)の名前を代わる代わるに呼んで、そのベッドに横たわる、いままだきっと無垢でしかない彼が見せてくれる身体の反応や表情の変化の一つひとつを喜び合う、家族4人でのそんな日常の始まりにあった。

 

そうそう、妻と長男がまだ病院で過ごしていた間中、夏休みをこの間に合わせて常に長女と一緒に居た私が、毎晩のようにその長女にせがまれて一緒に観るハメとなった「となりのトトロ」のビデオは、この頃になると、それは長女にとって、さほど必要ではなくなったようだった。だとすると、やはり(前回も触れたけれど)、長女は、ただ単にキャラクターたちの様を面白がっていたのではなく、“主人公の幼い女の子(メイちゃん)が病院で療養中の母親に会いに行く”というストーリーを何となくでも理解して観ていたのか?・・・でも、2歳前の子が、まさかね~。

そんな長女にとって、「となりのトトロ」よりも停まらなかったのは、昼間、狭いベランダになんとか拡げたビニール・プールのそこで水遊びをすることの方だった。それは少々過ぎたかも知れないほどほぼ全身真っ黒に日焼をけして、オマケに自然とパーマ掛かった髪質だったために、この夏のしばらくの間は、妻か私かのどちらかが長女を連れて近所周辺や公園を散歩していると、

「失礼ですけれど、お嬢さま(の)・・・、お父さん(お母さん)は、何処か外国の方ですか?」

などと聞かれること度々だった(笑)。

 

一方、ベビーベッドの中の長男は、見るからに確りとした造りの大きめの赤ん坊だった。まぁ、泣き声もでかい!が、湯に浸かるとそれはそれは気持ち良さそうにする。長女が生まれたばかりの頃とはまったく正反対の様子に、

「女の子と男の子ではこんなにも違うんだなぁ~」

と、やや勝手な決め付け方をしながらも、元気に力強く日々育っていく長男の様子を、可愛いというよりは頼もしいといった思いで見守った。

こうして、この世に生を受けた新たなる存在を目の前にしては、何から何まで全てが、測りし切れない意味深い何かを以って存在しているのだと実感させられるのだった。もちろん、当時はそれ相当の分だけ、妻も私も自分たちがそれまでに経験したことのない慌ただしい生活と、当然のことながら更なる重い責任を引き受けることにもなったのだけれど、そうであっても、子どもたちの成長というのはこれをも遥かに超えるほどの歓びをもたらしてくれるのだった。

実に、「生命誕生とその成長」とは、果てしなく凄い!そして、尊い!・・・とそう胸の奥でこの思いを抱きしめては、『とてもとても暑い夏』がまだ暫く続くそこに居た。

 

《前回を振り返りながら(指揮法編)》

そんな慌ただしさもある生活の中、一日のうち、どこか40~50分ほど時間を作っては、変わらず、イギリスのテレビ局によって制作された指揮者ショルティが進行役を務めていた“子ども向け音楽番組”を、でも、これ、「ホントに“子ども向け音楽番組”なの?・・・いやいや本格的に指揮者を目指す人のための基礎講座だよね」と思ってしまうほどの番組で、当時の「NHK教育テレビ」が日本語吹き替え版として、各回25分、10回シリーズで放送したこれを録画したビデオと、加えて、サイトウ・キネン・オーケストラの主には海外公演での演奏をテレビで放送した番組から録画したビデオとを、それを何度も繰り返し観ては、“指揮者とオーケストラの関係性について”これへの関心を途切らすことなく、探求し続けていた。・・・ん?少し違うかな?「関心」や「探求」と言ってしまっては体裁の良過ぎる表現かも知れなくて、単に、「面白くて停められずにいた」だけだ(笑)。

 

まったくの余談になるけれど、これらのビデオを観るタイミングが夜の遅い時間帯であった場合は、続けて深夜まで、バルセロナ・オリンピックのテレビ中継を視てしまい寝不足状態に陥ることもしばしばであった(汗)。

 

さて、「ショルティ」や「サイトウ・キネン・オーケストラ」、また「指揮者とオーケストラの関係性」云々のこれらであるけれど、これについては前回も書かせてもらったので、ここでは極簡単にだけご説明させていただきたく思う。

「ショルティ」は、1990年頃当時、指揮者として、それまでも世界の名立たるオーケストラと共演を重ね、またシカゴ交響楽団の音楽監督も併せて長年に渡って勤めてきていた。そのショルティが進行役を務めたイギリスのテレビ局が制作したその音楽番組は、恐らく70歳代後半の年齢に達していたであろうショルティが自身で培ってきた、それは指揮者として、やり遂げるべき仕事について、これに必要な技術から精神または心理面に至るまでの全てをここに注ぎ込んで見せてくれているような、非常に中身の濃い番組だった。当時その音楽番組を視聴していては、「なんて有難いことなんだ!」と感じた。

「サイトウ・キネン・オーケストラ」は、指揮者の小澤征爾氏など、故・齋藤秀雄氏のかつての教え子(またその教え子)たちが中心となって結成したオーケストラで、1987年頃から定期的に集り、1990年前後においては、ヨーロッパやアメリカなど海外での公演を積極的に展開していた。齋藤秀雄氏は指揮者・小澤征爾氏の最初の師匠であり母方の叔父でもある。指揮者として指揮法研究を重ねるより以前はチェロ奏者であったことから弦楽器の奏法にも精通していた人だ。

ところで、その齋藤秀雄氏が書いた「指揮法教程」という本は私に多大な影響を与えた。小学生の頃からの私の関心事の一つにあった「指揮者」という存在を、すでに社会人になっていた私のその関心事に換えて更に深く掘り下げていく、そうしたものになった。私はこの本に書いてある事柄を独学で少しずつ調べて、また時折、知り合いを辿ってこれに詳しい人のところへ教わりにも行って、私にしては珍しくここにのめり込んで探求を重ねた。・・・ああ~、これも「面白くて停められずにいた」からで、それで5年以上もの年月を費やした。単なる馬鹿かも(汗)。

 

そして、ようやく、『とてもとても暑い夏』のこの年の夏を迎える少し前に、齋藤秀雄著「指揮法教程」に書かれていた内容の一通りを、まぁ、“ひと区切り”という意味でだけれど、調べ終えたのだった。

齋藤秀雄著「指揮法教程」では、指揮者の動作の一つひとつが演奏者へ与える影響について、その考察が尽くされている。指揮者から発っせられる指揮棒(あるいは指揮者の手の先または身体)によって描かれる図形や動きが、演奏者を迷わせることなく、演奏者に向けて正確な意図を伝えるためにはこれが如何にあるべきか、その為に指揮者が備えるべき技法とその仕組みまでもが事細かに書かれている。・・・個人的にはそう解釈して、これに関連する様々を調べていたというわけだ。指揮者になるわけでもないのにねぇ(汗)。

つまり、『とてもとても暑い夏』の出来事のもう一つには、齋藤秀雄著「指揮法教程」で調べたことのその延長線上に、ショルティが進行役を務めた音楽番組と、併せて、サイトウ・キネン・オーケストラの演奏もそこにあって、これにも「面白くて停められずにいた」のだった(笑・汗)。

 

それで、前回の第101回では、どちらかというと、「ショルティ」について主に述べさせてもらったので、今回、第102回では、「サイトウ・キネン・オーケストラ」について、このあと、関連したことを諸々語らせていただこうと思う。

 

ちなみに、指揮者や音楽家などによっては指揮者に「指揮法」なる技法は無用であるとの意見もある。私はこうしたことの専門家ではないので、これに反論したり意見を述べたりはしないけれど(ん~、でも、前回に書いたことは少し反論的だった?かも・・・)、ただ、齋藤秀雄著「指揮法教程」が狙いとしているであろうその根底にある物事の捉え方・考え方は、これに無関係そうな、私の生活においても、私の当時の仕事においても大いに役立つものとなった。

 

《『とてもとても暑い夏』が過ぎて》

それから少し季節が進んで、幾分か僅かにではあるけれど、秋らしい空色に変わりつつあるのかなぁ~という頃、サイトウ・キネン・オーケストラは、その前年までの5年間に渡って続けていたヨーロッパやアメリカでの海外公演ではなく、国内で行う恒例イベントとして、長野県松本市での「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」を開催していくことの方へ舵をきった。そして、その第一回が開催されたのだった。

 

その「サイトウ・キネン・フェスティバル松本(第1回)」のプログラムからは、これより以前の海外公演で重ねてきた、「(故・齋藤秀雄氏の教えを継ぐ)日本人が奏でる西洋音楽が、本場ヨーロッパなど海外で、どれほど受け入れてもらえるのか?」といった挑戦、これとはまた違う別の挑戦を感じた。

これには2つあるように思った。

一つは、日本国内や日本人に向けて、より西洋音楽を、よりオーケストラが奏でる響きを、あるいは純粋に音楽というものを、より愉しむ楽しみ方をもっと知ってもらいたい、もっと面白がってもらいたい、“日本国内にもっともっと『音楽』を確りと根付かせていくのだ!”という挑戦を。

もう一つ。それまで、特に海外公演では、ブラームスの交響曲などをプログラムのメインに据えて、それはフルオーケストラ編成で演奏されるのだけれど、その場合、管・打楽器群にはヨーロッパやアメリカで活躍している外国の演奏者もゲスト・メンバーとして加わっていた。齋藤秀雄氏の教え子ばかりでメンバーが構成されているわけでは決してないのだった。やむを得ないのだけれど・・・。これに比べると、「フェスティバル松本(第1回)」のプログラムには、それは確かにブラームスの交響曲なども含まれてはいるのだけれど(言えば、そのブラームスなども管・打楽器群よりも弦楽器群が際立つ作品であるように思うのだけれど)、オープニングでは武満徹の「セレモニアル」という邦楽器(笙)とオーケストラのための音楽を、他、モーツァルトやチャイコフスキーの楽曲が並ぶも、これらがフルオーケストラ編成で演奏する楽曲ではなく、齋藤秀雄氏がもっとも精通していた弦楽器だけで編成・演奏される楽曲が選曲されている。ここには、“日本の演奏家だけの、齋藤秀雄氏のかつての教え子たちが真に主となった「サイトウ・キネン・オーケストラ」の演奏をたっぷりと味わってみて~!”といったメッセージと挑戦を、また、より強く感じた。

(*「A」と「B」のプログラムで多少は異なる印象はありますが、上記で述べたメッセージおよび挑戦の云々ついては同様に感じました)

 

そして、「フェスティバル松本(第1回)」の様子は、実際に演奏会が行われた開催期間のそこからさほど日が経たないうちにテレビでも放映された。もちろん、テレビ放映されたこれをリアルタイムで視聴して、ビデオ録画もして、また何度もくり返し観た。

ただ、時折、窓外の景色を眺めては、

「季節はもう秋なんだね~」

と呟いたはずだ。

 

《期待していた通りの?CD》

更に半年ほどすると、まぁ見事に期待通りだった。というのは、「フェスティバル松本(第1回)」のプログラムから弦楽曲だけを収録したCDが出された。

ただこれはライヴ盤ではなく、「フェスティバル松本(第1回)」が開催されていた期間中に、小澤征爾氏と「サイトウ・キネン・オーケストラ」が演奏会とは別に、録音だけのために臨んだ演奏で、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」、モーツァルトの「ディヴェルティメント ニ長調 K.136」、モーツァルトの「セレナード第13番『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』K.525」の3曲を収録したCDだ。

これが、今回、「今日の一曲」シリーズの第102回としてその102枚目にご紹介する盤だ。

これ、私自身は、初回盤のCDが発売されたその当時に、実家近くの例の、それは小学生の頃から社会人になってからもお世話になっていた、物静かそうなオジさんが一人で営むそのレコード店で、購入した。

(*その後、これを再版したCDも出ています)

 

さあ、CDを聴く。収められた曲順の通りに、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」、モーツァルトの「ディヴェルティメント ニ長調 K.136」、「セレナード第13番『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』K.525」の3曲を、それは先ずはお行儀よく聴くのだ。

齋藤秀雄氏の指揮法を基本に、カラヤン、そしてバーンスタインのもと、世界のオーケストラとの共演で経験を重ねてきた小澤征爾の指揮。その指揮を、齋藤秀雄氏のかつての教え子たちである各弦楽器の奏者たちもまた熟知して弦を奏でているはずで、・・・これは想像に過ぎないのだけれど、だからなのだろうと想いながらも実際にこのCDから聴こえてくるものは、またここで奏でられているものは、他でよく聴く演奏のテンポよりも幾分か全体的に速めであるにもかかわらず、細部に渡ってまで正確で、アンサンブルの乱れなど一瞬たりとも感じさせない、だからと言って決して窮屈でもなく、心地好い響きを伴いながら自然と流れ渡ってくるかのような音たちに感じるのだった。

とは言うものの、ヨーロッパやアメリカで活躍するいわゆる一流どころのオーケストラの演奏、併せて、当時のカラヤンやバーンスタイン、あるいはショルティらが指揮をするそれらとはまた明らかに違うものだ。もちろん、それぞれのオーケストラや指揮者によって聴こえてくるものが違うのは当然の話なのだけれど、こうしたものとはまた別の次元での違いだ。

これら伝統的なオーケストラや欧米の指揮者によるものとの違いは、これもまた私の誠に勝手なる聴覚とそれによる感想でしかないのだけれど、一音一音の音の立ち上がりと一音一音の音の移り変わりが、ん~、言葉で表現するのは難しいのだけれど、不明瞭という意味ではなく、極めて正確かつ精密でありながら、柔らかく包み込むような福與かさがあるというところが、一つ、「サイトウ・キネン・オーケストラ」の弦楽編成のときの特徴に思う。

そしてこれに関して言えば、このCDを購入したばかりの頃、これを聴いていては、収録されている3曲のなかで、この特徴が最も表れて、それがとても心地好い具合に届いてきたのが、モーツァルト作曲「ディヴェルティメント ニ長調 K.136」からだった。

 

《好みではないモーツァルトが心地好く》

これまでも、この「今日の一曲」シリーズのなかで、私は、モーツァルトの作品はあまり好みの方ではないことを申し上げてきた(クラリネットが中心の曲は別にして)。よって、モーツァルトを聴いて強く惹きつけられるなどということは非常に限られているのだけれど、この、指揮者・小澤征爾と「サイトウ・キネン・オーケストラ」によって奏でられた「ディヴェルティメント ニ長調 K.136」は、その数少ない中の一つである。いや、最も気に入っていると言っていい。

前述した弦楽編成の「サイトウ・キネン・オーケストラ」の特徴を違う言い方をすれば、ある意味何処かで「日本語的」なのかも知れない。

言語学者たちのある研究によると、モーツァルトが生きていた時代のヨーロッパの言語はドイツ語あるいはこれに類似する言語も含めて全体的に軽やかに柔らかく発音されていたらしい。

だとすれば、齋藤秀雄氏の指揮法と弦奏法を基に、指揮者を含めてこれを演奏者全員が共有する齋藤秀雄メソッドによるテクニックから生み出される音たちは、精確かつ澱みなくこれを放ちながらも、そこには日本人のどうしようもなく奥深いところに染み込んでいる「日本語的」なリズムもあって、それは“基の精確さ”をやや曖昧にしてしまいそうでありながらも“柔らかさ”なり“福與かさ”また“軽やかさ”なりを生み、これらが常に絶妙なバランスで相まって、もしかしたら、モーツァルトの作品がもつ“特性”や“らしさ”みたいなものを上手い具合に引き出しているのかも知れない、などと、またまた勝手な解釈をして聴くのだけれど・・・(笑)。

 

ん?・・・ 

少々理屈っぽくなったかな?(汗)

 

さてと、念のためだけれど、前半に出てきた、我が子・長女の姿を見た人たちから度々あった、「失礼ですけれど、お嬢さま(の)・・・、お父さん(お母さん)は、何処か外国の方ですか?」という質問のこれに、明確に答えていなかったので、ここで答えることにしよう。

「どちらも日本人で、少なくとも2世代前まで遡っても日本人です」

と。

それで、モーツァルト作品をどう演奏して、またどう聴こえるのが本当は好ましいのか、本来に近いのか・・・などなどこれらのことは、プロの音楽家や音楽評論家など専門家の人たちに譲るとして、私は日本で生まれて、日本人として日本で育ってきた者で、その者が勝手に解釈したことをどうこう述べたところで、ここでご紹介しているモーツァルトが個人的に「とても心地好い」と言っているだけのことであって、あまり真に受け過ぎないよう、これについてはお願い致したく思う。

 

兎にも角にも、私にとっては“それはなんとも心地好いモーツァルトとここで出会えた”ということが幸運の一つなわけで、これが我が子の成長を見守りながら家族4人で過ごす、このことの中にあったということだ。

 

「今日の一曲」シリーズの第102回、今回は、指揮者・小澤征爾と「サイトウ・キネン・オーケストラ」が1992年9月9日・10日(「サイトウ・キネン・フェスティバル松本(第1回)」開催中)に録音のために演奏した、これを収録したCD(1993年の初回盤)から、モーツァルト作曲「ディヴェルティメント ニ長調 K.136」を、このシリーズの102曲目としてご紹介させていただいた。

 

当時、幼い長女と生まれたばかりの長男は、このモーツァルトを聴いて育った。

さて、これは一種の英才教育に繋がったのか?

アハハハハハ・・・、それは実際に聴いて育った、そして現在ではもう社会人の一員とまでになった長女と長男、本人たちに聞いてみるのがいいだろう(笑)。

 

どうでしょうか?・・・皆様にも、それは他者が認めてくれるかどうかは別にして、世間や専門家の評価や評判などともまた別にして、ご自身にとって、なんとも心地好い音楽、理由もなく心地好い演奏というのが、また音楽ではなくても、きっと、それぞれにあるのではないでしょうか。

自分にとっての心地好さ・・・。

これはこれで、あなたご自身には大切なものの一つかと存じます。

どうか、ご自身で十分に味わってお愉しみいただきたく存じます。

 

今回もまた、長文に最後までお付き合いくださり、お読みいただきましたこと、心より感謝申し上げます。

ありがとうございました。