番外編:「大学入学共通テスト」のゴタゴタにモノ申す

 シンガー・ソングライターでありながら本ホームページの「子どもたちを育む『自立と自律』」のページ内でも記しているように、教育に関する活動もしていることから・・・それでも本来は教育の個々の問題に一々反応しないことにしていたのだけれど、ここで問題となっている「大学入学共通テスト(2020年度から導入予定)」に限っては、これを統括する文部科学省及び国も、チェック機能を果たすべき国会など政治家(与野党ともに)も、そして今回「大学入学共通テスト」に関して文部科学省から委託を受けている民間業者も、いずれもがその進め方や対応においてあまりに無責任でお粗末過ぎるとしか言いようのない状況で、日本の教育全体に及ぶ危機感さえ感じます。そこで、今回ばかりは少し意見を述べさせていただきます。では早速、本題へ・・・。

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 いま問題が指摘されている「大学入学共通テスト」の受験対象となり得る高校生(主に現在の高校2年生)以下中学生などの子どもたち、そしてその保護者の方たち、またここに関わる学校教育の現場は不安と混乱の中に置かれてしまっている。特に最初の2020年度の受験を控えている子どもたち(主に現在の高校2年生)にとっては目前のことで、今更、このゴタゴタは迷惑でしかなく、とても深刻な状況にある。

 

 新しく「大学入学共通テスト」が掲げた、これまでのセンター試験には無かった・・・①英語の「書く」・「話す」の力を得点に加えること、②国語と数学では記述式の解答を求める問題を加えること、これら①、② の主旨と方向性については私個人はある程度は理解もできるし、このこと自体はどちらかと言えば賛成な方である。

 実際にプレテストの問題の何科目かをその一部だけではあるけれど検証してみたところ、これまでのセンター試験よりも更に「知識」と「思考力」をバランス良く問うための設問の工夫も成されていて、総じて良質な問題が並んでいるという印象をもった。問題を作成した出題者の方々の力量とそのご苦労にも敬意を表したい思いにさせられた。

 これら設問および問題内容に関してだけに着目するならば、この高い質が毎年継続的に長期に渡って常に保つことができるのだろうか?・・・という点が気にならないでもないのだけれど、それよりも・・・・

 

 それが、ここへきて指摘がされて(ホント今更だけれど)ゴタゴタしている問題だ。

 

 先ず一つ、①英語の「書く」・「話す」を民間試験で実施するという方法を採ったこと。・・・これについては遂先日になって実施は見送られることにはなったのだけれど、この民間試験への申し込みやその準備が教育現場では既に始まってしまってからの発表となった。

 それともう一つ、②国語と数学で記述式の解答の採点を、これもまた民間の特定業者に委託するという。この採点業務の委託を受けた業者は、大学生のアルバイトまで募集して採点すると言っている。なんともお粗末過ぎる話だ。

 

 いずれも「本来の公教育の目的とは?」という本質であり中心軸(下の画像:愛間純人著の資料「子どもたちの自立力育成を探求して(第1編:詳細編)」から抜粋の7~8ページを参照)から大いに外れた手段だ。「公教育」の本質に照らして考えれば、案として出てくることさえあり得ないはずなのだけれど・・・。

 敢えて皮肉を言わせていただくけれど、社会的にも優秀とされ、地位もある方たちが集まって事を進めているにも関わらず、何故、その本質や中心軸から、それも少しどころではない、大きく外れた手段で実施しようということに至ったのか?・・・まったく不思議でならない。

 この丸投げに近い民間への委託という手段は、それはもう「本来の公教育の目的」に反する手段だ。

 

 加えて・・・、もともと記述式の解答については「AI(人工知能)」を用いて採点するつもりでいたらしい。何方かは申し上げないでおくけれど、「AIで採点ができる」と言い切った人がいるらしく、その意見を鵜呑みにしてしまった文部科学省・国はそのAI開発に莫大な予算まで組んだ。

 熱心かつ冷静にAI開発に携わっている科学者や現在のAIの仕組みについて熟知されている方であるなら、記述式の解答の採点をAIに任せることは不可能であるということの判断を誤るはずはない。

 しかしながら、こんなにも重要なことを、誰たちの判断で、何処でどう決めると、こんなことになってしまうのだろうか?・・・。

 それで、「えっ、AIでは採点できないの?」と遅きに気付いたところで慌てて民間業者に委託しようということになったのだろう。

 

 さて、記述式の解答の採点とは、専門知識のみならずその他の能力と多くの経験を要する。

 少しだけ科学的な分析から申し上げるのなら、「言い換え表現」、「同義文判定」、「含意関係認識」の能力を確りと持ち合わせている必要があるということになる(AIはこれらの能力の精度を上げることを苦手としている)。・・・<新井紀子著「AIに負けない子どもを育てる(東洋経済新報社)」より>

 模範解答例が幾つか用意されたとして、単に大学生や大学院生のアルバイト、またこれに限らないまでも、適切な採点はそうそう誰にでもできるというものではない。最低限でも先に上げたその能力を持ち合わせていることが確認できる人材を集めた上で実施がされなくてはならない。

 私は数学の教員や塾講師を30年以上やってきたけれど、いかなる試験の採点においても、記述式の解答ではその度ごとに、「おっ、この解答はもしかしたら・・・」と、じっくりと構えて判断・採点しなければならない解答と必ず遭遇する。それは、その受験者の思考力や発想力と面白みまでもが解答として表れたものを目にする瞬間で、ここにこそ記述式の解答を求める重要な意味があるのだけれど、それだけに採点業務にはその分野・科目の専門知識に加え、専門以外にも広い予備的な知識と視野、そして幾つもの記述式の解答を判定・採点を重ねてこそ得る実践的かつ豊富な経験などもまた不可欠になる。

 

 もしも、「そこまで一つひとつの解答を深く検証するようなことはいしないで採点するんだよ」といった構えで、簡単な基準だけで採点をしようとしているのであれば・・・、

 それは受験生への侮辱でしかない、

 出題者の意図を無視するものでしかない、

・・・そう言えるだろう。

  文部科学省も委託される業者の側もこの程度の採点で切り抜けるつもりでいるのなら、これもまた大きな問題である。そんなことであるなら、むしろ記述式の解答を求める問題など最初から必要ではないことになってしまう、マークシートだけで十分だということになる。

 

 「本来の公教育の目的とは?」といったその本質や中心軸となるものから大きく外れた手段、こういった手段は必ずや重大な綻びをもたらす。

 官民一体を積極的にもっと進めるべき分野は様々多くあるけれど、今回の「大学入学共通テスト」に関してはあまりにお粗末でこの類の話とはまったく次元の異なるレベルにあって、物事の本質を見失ってしまっている手段だ。

  文部科学省と「大学入学共通テスト」実施に関わる民間業者との間でどんな取り決めや契約が成されていたとしても、またこれらが後戻りの難しいところまできてしまっているとしても、英語の民間試験も、記述式の解答の採点を民間業者に委託することも中止すべきだと考える。

 

 高校生たちや教育現場も既にこれらに対応すべく準備を進めてきているのだけれど、それは「学びとしての質の高さ」や「真の学力」とし考えれば決してデメリットばかりにはならない。確かに現実として、ここまで進めてきたことに対してやるせないような思いになる事も多くあるだろうけれど、更に大きなものを犠牲にしないためにも致し方ないのではないだろうか。

 

 ここからは私の提案だ。致し方ないが現実的な提案だ。

 「大学入学共通テスト」は従来のセンター試験同様に解答はマークシート方式のみで実施する他ないと考える(これについては国会議員の野党の一部から改訂を求める案が提出されているけれど、私がここで述べているその改訂理由の主旨とは少し違う)。

 それでも・・・それは記述式の解答を求める問題と同等には問えないにしても、キーワード的な知識ばかりを問うようなことにならない出題の方法は可能であり、実際にセンター試験でも、知識と思考力を共に必要としたそうした問題は各科目でこれまでも出題されてきている。「共通テスト」として多くの受験生に課す試験をペーパーテスト(紙面印刷による試験問題の解答を紙面に示す)という手段で行う以上、これを実施するためには現実的に今はこの方法しかないと考える。

 

 そこで、英語での話す力や、国語や数学で求めているような記述式の解答でなければその学力を見極めることができないといった事柄については、国公立の大学ならその共通テスト後の(2次)試験で各大学・学部・学科で課すこともできるだろう。

 私立大学もまた受験料集めや学生数集めばかりに躍起になるのではなく、質の高い大学教育を真に目指している大学であるのなら、マークシートのみの共通テストとは異なる視点からこれを補うだけの入試を私立の各大学であっても課すことはできるわけで、本来、そうしないわけにはいかないはずである。

 国公立私立ともに各大学がどういった入試を実施するのかで、その大学の真の教育への姿勢も見えてくる。

 

(*ここで述べることはしないけれど、私は進学の方法および入試の在り方それ自体を大きく見直すべきだという考え(理想)をもっています。これらを含めて現在、資料「子どもたちの自立力育成を探求して(第3編)」を執筆・作成しています。)

 

 入試の得点を稼ぐため・・・そこに合せて学ぶのではなく、本来は「生涯を通じて学び続ける姿勢」を育てていくことが真の教育なのだろうけれど、そうは言っても、今、現代日本社会の中で、現に目の前に立たされている子どもたちにとっては「本来の学び」に取り組むといったことの方がずうっと難しい、そんな環境に置かれてしまっている。

 

 来年度の2020年度から順次、小学校、中学校、高校で完全実施となる「主体的・対話的で深い学び(アクティブラーニング)」をはじめ、小学校での英語教育、コンピュータ・プログラミングの教育など、多くの教育現場ではその本来の意味も理解がされていないまま、そこに求められる手法や技術も未熟なまま、またここに必要な十分な教員の研修や体制準備もされないまま、見た目の体裁だけをなんとか整えてその実施を迎えようとしている。

 もちろん中には確りとした準備を進めている学校・教育現場もあるけれど、全国を見渡してみても十分に備えている学校は僅かで、ほんの一部の学校に限られている。学校間での格差も、地域や学区間での格差もますます拡がっていくことになるだろう。

 文部科学省も2020年度を起点に教育改革を掲げて日本の教育の質を向上させようと段階的に様々な指針も示していて、その意図するところは私個人は大方肯定的に受け止めている。しかしながら、教育現場の実態や子どもたちが置かれている状況を広く様々な視点で見渡して直視していく姿勢が欠けているように思えてならない。どうやって真に実現していくのが良いのかその仕組みを、小手先だけの手段ばかりではなく、確りと軸をもった仕組みとして組み立て上げていこうという姿勢だ・・・それが見受けられない。何となくだけれど、「そんなところまで我々は知りませんよ」といったようにも感じられる(違うのであれば大変申し訳ないが、そう感じてしまう)。

 

 こうした日本の教育全般の問題もまた「大学入学共通テスト」の問題と同様に、文部科学省および国も、国会における政治家(与野党ともに)たちも、「子どもたちへの教育」を真に意味のあるより良い方向へと実現していこうといった点においては真剣みに欠けると言わざるを得ない。右往左往している現場の教職員や学校関係者のことを、そして何よりも子どもたちのことを本気になって考えている人の姿は、この国の中枢に携わる立場の人たちの中には残念ではあるけれど見ることができない・・・やはりそう感じてならない。

 

 さらに加えて、恐縮ながら遠慮なく申し述べさせていただくと、多くの日本の大人たち・大衆もまたあまりに無関心過ぎるのではないだろうか。そんな大人たちを眺めながら、子どもたちのその多くが悲鳴も上げられずに、悲鳴の上げ方もわからないまま、こうした危うい教育(公教育)を受けながら毎日を過ごしている。子どもたちの多くは自身がこのような環境に置かれていることなど気付くはずもなく過ごしている・・・。そして、この子どもたちは「生きていく力」を十分に備え蓄えることもできずに、やがて社会へと出ていくことになる。・・・こんなことが西暦2000年頃から繰り返されているという現実に気付こうとしない無関心さは、日本の教育をますます危うくしている。少々極端な物言いになったかも知れないけれど、「子育て」と「公教育」はその時代の大人たち皆の責任なのではないだろうか・・・。

 

*本ホームページの「子どもたちを育む『自立と自律』」のページも是非ともご覧いただきたく存じます。

 

*全国を眺めては少ないとは言え、現にすばらしい教育の取り組みと工夫を重ねている学校(公教育機関)もあって、ご尽力されている教師の方も個々にはいらっしゃいます。また地域と学校が共に、「子育て」・「教育」・「地域活動」を支え合って一体となって取り組んでいるような例もあります。これらが大きな一つのまとまりとなって拡がっていったらイイとも思うのですけれど、何故、バラバラなままなんでしょうね~・・・。