「今日の一曲」シリーズの第112回です。
昨年の2020年は、殊クラシック音楽ファンにとっては、“ベートーヴェンの生誕250年”と、もう一つ、“武満徹の生誕90年”というものが、ある種、大事な節目として在ったわけでして…。特に“コロナ渦”においては、彼らの作品を通して、音楽の魅力や大切さのこうしたものをこれまでよりも余計に感じて過ごした、と、そういった方も多くいらしたのではないでしょうか。
で、ベートーヴェンについては、昨年中に、私めもこの「今日の一曲」のなかで取り上げさせていただいた次第で。が、武満徹については、生誕90年にチラッとふれただけで済ませてしまったところがあって…。
そこで、今回は、昨年から今年に掛けて私めが繰り返しよく聴いていた武満徹作品の、そのうちの一曲をご紹介しつつ、これに絡めて諸々語らせていただきたく思います。
ーーーーーーー
《イントロダクション》
この「今日の一曲」シリーズで、武満徹と武満徹の作品のこれらについて取り上げさせていただくのは、今回が4回目。これまでには、「ノーヴェンバー・ステップス(第13回:2016/12/27)」、「5人の打楽器奏者とオーケストラのための『FROM ME FLOWS WHAT YOU CALL TIME』(第63回:2018/01/02)」、「『ギターのための12の歌』より『Yesterday』(第89回:2019/03/26)」の3作品を取り上げてきた。で、これら作品のご紹介と併せて、その度に、私事のあれやこれやも含めて色々と語らせていただいてきた、というわけなんだな。
ってなことで、今回は、先ず、これまでに語ってきたその辺りのことを極々簡単におさらいするところから始めさせていただきたく思う。
そも、武満徹作品のこれと最初に出会ったのは、私めが20歳くらいのときだったように記憶している。これより前、まだ高校生の小僧でしかなかった私がその頃に聴いたストラヴィンスキーの「春の祭典」に衝撃を受けて、20世紀初頭以降の“現代音楽作品”と呼ばれる音楽のこれに興味を持ち始めたのが切っ掛けであったかと。ここから邦人作品についても色々と探っていると、偶然的にと言って良いだろう、そんなタイミングで出会ったのが、武満徹、この人の作品だった。武満徹を知ってはじめのうちは、「ノーベンバー・ステップス」など管弦楽作品を聴くのが主だった。それから、武満徹という音楽家のその歩みについても少しずつ知るようになると、彼が書いた映画音楽や、あるいは、ピアノやフルート、ギターといった器楽曲も徐々に面白く聴くようになって…。
そんな次第で、出会ってからおよそ40年、いまや武満徹と武満徹作品のこれらは、私の内なる何処か、とでも謂えばいいのか? ぅん~よく分からないけれど、兎も角、その辺りに在る、どうやら大切な一つらしいのだな。
いや、こんな言い方では分かりにくいよね。
簡単に謂えば、還暦も過ぎようとしているいま当にその私にとって、武満徹の音楽は欠かせないものの一つとして在る、ということだ。ま、しばしば感謝の対象となる、有り難い存在だ。
《2年間を振り返ると》
この約2年間においては、“新型コロナウイルス”なるこいつが社会の多くに影響を与え続けてきたわけで。いや現在もだけれど。
…2020年2月から拡がり始めた“新型コロナウイルス”による感染は、2021年の8月から9月にかけては、オリンピック・パラリンピックが無観客で開催されるも、これの“第5波”が日本国内中を覆うこととなった。この間、飲食業や観光業は大きな打撃を受けることになり、他、アルバイトや職を失う者も多くに及んだ。先々月の10月になって、ようやく感染の波も収束へと向かい、比較的という言い方にはなるけれど、現在はその感染の拡がりは抑えられている状況にある。ただ、最近においては、変異株の“オミクロン株”が南アフリカ方面からヨーロッパなど各地へと拡がり始めていて、日本国内でも感染者が確認されているような状況でもあり、更なる対応と警戒とが必要に迫られている。また、世界経済においては、急激なインフレに対しての懸念が広まりつつあって、これへの対応も怠ることのできない状況にあるらしい。…
とまぁ、感染の具合も、経済の状況も、私め如き者が考え予測したその通りの経過を辿っているんだなぁ。
個人的には、出来れば長引いて欲しくないなぁ、というのが望みではあったから、その感想として、残念だ、というそれはあるけれど、でも仕方ないのだよね。あっいや、これは“あきらめの仕方ない”ではなくて。あれこれ言ったところで、全てはこうにしかならない状況にあった、という意味で。こうならざるを得ない、それは分かりきったことであったわけだし、現状のこれよりも好い方向へと向かわせるその力も術も持ち合わせていなかった、ということでは、私とて…本ホームページに「読楽論文」というページを作って私なりに発信を試みたりもしたけれど…結局のところ同じであったわけだし。むしろ、中途半端な発信を試みた私なる者こそが最も馬鹿者であったのだと、深く反省している。
そんなことで、私事としては、2020年2月14日より音楽活動・ライヴ活動の一切を中止。いま現在もこれら活動再開の目処は立っていない。たくわえてあった食料(非常食用)やら預金やらは無くなっていくばかりで、この状況にはさすがに少々慌てたけど。それでも、昨年の後半からは家庭教師みたいなことをしながらこれでどうにか食いつないでいるような状況で、我ながらよくぞ生き延びている、と自画自賛ってわけだ。ハハハハ…。
ちなみに、音楽活動・ライヴ活動再開に向けてのそれへの備えは、先月に公開したブログ「番外編:その後の『フースラー・メソード』」に記載したこれで、大凡のことはお分かりいただけるかと思う。ぃや、わざわざこれを読まなくてもいいよ。日々それへの備えだけはしている、というだけのことだから。はい。
《“うた無し”の方が》
こうした一方で、この約2年間の振り返りを、音楽を聴くときの自分というものに向けて、これを俯瞰的にやや遠目から眺め直してみると、どうも、“うた”というものを避ける傾向にあった、とそう思えてくる。
殊2021年において、この約1年の間に私めが繰り返し好んで聴いていた音楽のこれらを上げるなら、シベリウス、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、バルトーク、コープランドといったところの作品が多かったように思う。これらの作品を聴いていては、いやぁ、とってもラクぅ~になれたのだよ。自身の何処もそこもが空っぽになっていくような、聴いているその間は何も考えずに済む、そんな感覚になれてね。
これらの他では、バッハ、かな…。たまぁに、フュージョン・ジャズやポップ・ジャズなども聴いてたけど…。
が、聴いていた音楽のこれらは、いずれも、“うた無し”の作品。インストゥルメンタルの作品を聴くことの方が圧倒的に多かったのだよねぇ。
そんなだから、この1年くらいの間では、JーポップやKーポップ、洋楽のそういったポピュラーな音楽を聴くということが随分と減った。そりゃぁ少しは聴いてもいたよ。が、そこには義務的な行為のそれがどうしてもあって。巷で流行っているものも一応チェックしておこう、といったある種余計な作為のこれが混ざった聴き方でもあって。もちろん、これらを聴いていては、特にここ最近においては、「YOASOBI」や「Ado」、「藤井風」など、こうした人たちが奏でる音楽や歌のここに在る面白さにも惹かれて、聴きさえすればこれはこれで心地好くもあるのだけれど。が、これらを聴こうとするときの自身のその動機にはこうした常に義務的な何かが働いていて、つまりは、聴き方のそれが自然でないわけよね。尤も、この程度の“自然でない聴き方”なら、とっくに、高校生だったそのくらいのときから始まっていたのでもあって、いま更、こうした“うた”たちを聴くこれが随分と減った、その理由にはならない。
とするとだ、“コロナ渦”というこれには私なる者も知らず知らずのうちに疲弊してた、そんなところがあったのかも知れない。その余裕の無さから、歌詞に在る言葉の一つひとつを受容するだけのエネルギー、こうしたものまでもがいつの間にか削がれていたのかも。
で、2021年のこの1年の間では、インストゥルメンタル作品のこれの方が、更に謂えば、インストゥルメンタル作品もどちらかと言えば標題音楽ではないものの方が、あるいは、あまり形式的でないものの方が、既定されたそうした部分が少ないだけに、その分幾らか自由に、ラクぅ~に聴けたのではないのかな。
とまぁこんな具合に辿っていくと、先に上げた、あれらクラシック音楽の現代音楽作品の類や、“うた無し”の作品の、これらを聴くことの方が自ずと多くなっていったのだろうね。
ちなみに…、聴くのと、これとは一寸違うのかも知れないけれど…。
この約1年の間では自身の音楽創作にもこれと似た傾向があって。メロディや曲のアレンジのこれはほぼ絶えず浮かんできて、雑記帳にもこれらを譜にしたメモを幾つも残してあるのだけれど、対して、歌詞のこれに繋がっていくような言葉や題材のヒントは二つ三つほどしか残していないのだよ。歌詞が浮かんでこない、と言うより先に、歌詞を書こう、とそういった感情がまるで湧いてこない、そんな時期が長く続いた。
それだけ、言葉、歌詞、これを相手にするというのは、それ相当のエネルギーが必要なのだろうかな。
なんて言いながら、言葉を使ってこんなのを書いてもいるわけだけれど。アハハハハ…。
♪
むずかしいことばは
いらないの
かなしいときには
うたうだけ
うたうと、うたうと、うたうと
かなしみはふくれる
ふうせんのように
それが わたしの よろこび
・・・・
「うたうだけ」
(谷川俊太郎:詞)より
♪
《何故だか分からない・1》
ところがだよ、ここまでに語ってきた話を覆すかのような、そうした“うた”も在るのだよね。
特にこの2021年においては、大抵は、“うた”のここに並ぶ言葉のこれが、音楽の、旋律というものに乗っかっているのを聴いていては、それを負担に感じたり、煩わしくあったり、これら聞こえてくる言葉を受け止め切れずに避けていたわけだけれど、ふと、部屋のラックから取り出して手に取った盤のここに収められた“うた”たちは、違うのだった。
考えてみると、この盤を手に取ってみたそこからして、不思議だ。この盤を聴いてみる気になったこのこと自体、何故だか分からない。
で、ここからは、“何故だかわからない”その盤とここに収められた一曲について、これをご紹介がてら、諸々語らせていただきたく思う。
私めが部屋のラックから取り出して手に取った盤のそれというのは、「武満徹・全合唱曲集」。これ、2013年に、武満徹の命日でもある2月20日…武満徹は1996年2月20日にその生涯を閉じた…、その日にリリースされたCDなのだ。指揮者の山田和樹と東京混声合唱団によって2012年11月17日に東京・第一生命ホールにて演奏したこれが収録されている。
収録曲は、
・混声合唱のための「風の馬」(秋山邦晴:詞)
・男声合唱のための「芝生」(谷川俊太郎:原作詩、ウィリアム・マーヴィン英翻訳)
・男声六重唱のための「手づくり諺」~4つのポップソング~(瀧口修造:原作詩、ケニス・ライオンズ英翻訳)
・MI・YO・TA(谷川俊太郎:詞、沼尻竜典:編曲)
・混声合唱のための「うた」(武満徹、谷川俊太郎、川路明、井沢満、秋山邦晴、ほか:詞)
以上の5作品(但し、混声合唱のための「うた」は、12の小作品から編まれている)。5作品ともに無伴奏の合唱曲だ。
「武満徹・全合唱曲集」という盤(CD)のここに収められた、これら5作品のいづれもが“何故だかわからない”のだけれど、“うた”のこれを聴いていても心地好いのだよ。もちろん、義務的な、そんなのも全く無い。
5作品は、創作された時期も、創作へと至った目的や意図も、合唱曲として成すまでの過程も、これらの点でそれぞれが異なる。故に、武満徹の作品とは言え、作品がもつその作風はそれぞれに在って、それぞれで異なっているわけで。5作品のこれを順に聴いていっては、ここから受ける印象もそれぞれに在って、それぞれで異なる、というのは当然のことであるわけなんだけれど、が、5作品とも、先に上げた、シベリウス、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、バルトーク、コープランドといったところの作品のこれらと似て、心地好い。併せて、歌詞として並べられた言葉のこういったものも、我が内側のその辺りにまで、抵抗なく、すうっと入ってくる。
ま、驚き、でもあるよね。なんとも不思議だ。
なかでも、「混声合唱のための『風の馬』」と「混声合唱のための『うた』」とは対称的な二つに想うのだけれど、この二つには更に何かが在るのか、これもまた“何故だかわからない”けれど、我が身の外も内も何処もそこもラクぅ~にしてくれる、こうしたものを感じるんだよなぁ。
「混声合唱のための『風の馬』」は、武満徹の管弦楽作品や器楽曲などでも聴かれる、クラシック音楽の現代音楽作品としてのこれに類する印象が強い作品。対して、「混声合唱のための『うた』」は、武満徹自身も語っているけど、難しい芸術的な歌曲とならない、比較的耳に馴染みやすく肩のこらない、そうした12の小作品を集めて合唱用に編んだ作品だ。
ホントはね、『風の馬』と『うた』、「今日の一曲」シリーズの第112回としてどちらを今回の“一曲”に取り上げようか、少々迷ったのだよ。ただね、迷いながらも、いまの私めにとっては、“うた”というこれがキーワードなのかなぁ、なんて思えてね。また、『風の馬』の方は、現代音楽作品としての印象が強い、これがあってかも知れないと思ったりもしたものだから…、してみると、『うた』の方が余計に“何故だかわからない”などと思って…。
そんな次第で、今回は、「混声合唱のための『うた』」これを“一曲”として取り上げることに。
♪
・・・・
春がきたけど
なにもない
夏がきたけど
なにもない
なにもないけど暖かい
あたたかいのは空と風
あたたかいのは雲と陽光
ああ、ひとのこころの暖ければ
なにもないけど
それこそすべて
「小さな部屋で」
(川路明:詞)より
♪
《何故だか分からない・2》
「混声合唱のための『うた』」は、武満徹が18・19歳くらいのときから自身で書いた詞や谷川俊太郎氏などによる短い詩に曲をつけて書きためてあった作品たちを、合唱編曲を練習しようと、これらを合唱用に編曲し始めたのが切っ掛けであったらしい。そこから、あらためて12作品を集めて編んだのが、「混声合唱のための『うた』」というこの合唱曲らしいのだ。
12の小作品を演奏の順にご紹介しておこう。
1.小さな空(武満徹:詞)
2.うたうだけ(谷川俊太郎:詞)
3.小さな部屋で(川路明:詞)
4.恋のかくれんぼ(谷川俊太郎:詞)
5.見えないこども(谷川俊太郎:詞)
6.明日ハ晴レカナ、曇リカナ(武満徹:詞)
7.翼(武満徹:詞)
8.島へ(井沢満:詞)
9.○と△の歌(武満徹:詞)
10.さようなら(秋山邦晴:詞)
11.死んだ男の残したものは(谷川俊太郎:詞)
12.さくら(日本古謡)
演奏時間は、一つの小作品でおよそ2~5分程度。全体を通してはおよそ40分程度だ。
そして、“何故だかわからない”なりにも、『うた』というこの作品が、“うた”を伴いながらも、どうして2021年の私めを心地好くラクぅ~にしてくれたのか(…してくれているのか)、を考えてみる。
が、わからない、のだから、大したことは何も言えない。
それでも、一つ、思うのは、“普遍的”ということであるかも知れない。
先ずは詞だ。武満徹が自身で書いた詞も、谷川俊太郎、井沢満、秋山邦晴の彼らが書いたそれらの詞も、歌詞に並ぶ言葉たちのこれが“普遍的”、あるいは、“普遍的”のこれに寄り添っているとでも言えばいいのか、そんなであるように感じるのだ。受け手の側が、いつどんな状況にあっても共有し得る、または共感し得る、それも直感的かつ内面深くで感じ得る、つまりは“普遍的”であるこれを歌詞や言葉の何処かに感じるから、許容しやすい、受容しやすい、ということになるのではないのかな、と。
武満徹が付けた旋律のこれも、歌詞と一緒に思わず鼻歌でも口ずさみたくなる、そんなシンプルさを感じるメロディで。謂えば、“普遍的”というこれと同調しやすくあるのではないのかな、と。
更には、武満徹の合唱編曲のこれだ。武満徹の作品らしい…武満徹の管弦楽曲や器楽曲の作品にもある…和音の構成や曲全体これを編む音の使い方には、この作品でもやや複雑めいたその特徴的な響きがあちらこちらに感じられる。が、あくまでも無伴奏の合唱曲だ。人の声のこれだけがただただ聴く側へと届く。ずうっと遙か遠くへなのか、ずうっと奥深くへなのか、どこまでも、外へ外へと拡がっていくようでもあって、内へ内へと突き進んでいくようでもあって、宇宙とか、人間にはどうしようもなくはかりしようのない何か果てないもの、こうしたものを想像させるそんな響きが在るように想うのだ。すると、この合唱編曲によって届く響きの果てない感じのこれも、またある種、“普遍的”であるのかな、と。
いや、いま私が言った“普遍的”とは、ここにおいては適当ではないカモ。と言うのも、私めが一人こんなふうに感じたところで、だからって、誰もが同じように、誰もが似たように、いつでもこう感じる確証は何処にも無いからで。所詮、私の主観のうちでしかないかも知れないこの感覚を、ここで“普遍的”と言うのは、ぅん~、やはり違うのカモな。
私がこれまでに歩み生きてきたなかで感じてきた色々と、いまこの瞬間に私が感じている様々を通しては、“普遍的”と表現して言うこのこともそう的外れなことだとは思わないのだけれど…。はて、どう表現して言えば好いものか?
ハハハハ…、やっぱり、“何故だかわからない”ってことか。
ま、“普遍的”という言い方のこれは不適切であるかも知れないけれど、兎にも角にも、少なくとも2021年の私めには、『うた』のこれが何やらこんな具合に感じられて、『うた』の“うた”を聴いていては、常に心地好くラクぅ~になれたのだよ。
♪
昨日ノ悲シミ
今日ノ涙
明日ハ晴レカナ
曇リカナ
・・・・
「明日ハ晴レカナ、曇リカナ」
(武満徹:詞)より
♪
《何かに出会える機会》
それにしても、『うた』のような作品の“うた”に出会うと、“うた”がもつ威力の凄さにあらためて感動させられる。それは時に、“言葉”や“歌詞”が在るその分だけ、インストゥルメンタル作品のこれらをも越えた心地好さの瞬間と空間の、そこへと誘うものであるかのように思う。
先に私は、「言葉、歌詞、これを相手にするというのは、それ相当のエネルギーが必要なのだろうかな」と言ったけれども、逆を謂えば、言葉、歌詞、これ自体がもつエネルギーの威力のその凄さを併せて言っていたのかも知れない。なぁんてね、ふといま、これを語りながら思ったのだけれど。
旋律やリズムや編曲のこれによる音のエネルギーと、言葉や歌詞がもつエネルギーとが、互いに融合して重ね合わさって“うた”という音楽を創るのだものなぁ。創作した作者たちの創造と想像のエネルギーのこれが互いに融合し合ったそのエネルギーが作品に宿って聴く者へ届けられる、ってわけだものなぁ。作者たちから生み出されたエネルギーのこれらが見事ってなくらいに正しく融合されたなら、そりゃぁ凄い威力を魅せるに決まっている。
“作者たちから生み出されたエネルギーのこれらが見事ってなくらいに正しく融合された”『うた』のような作品の“うた”に出会うことは、そうはなかなかないってことなんだな。
おっと、“何故だかわからない”これの一部分が一寸だけ分かったカモ?
ならば、あらためてもう一度だけ、音楽を聴くときの自分というものを眺め直してみよう。
私が『うた』の“うた”を聴いていて心地好くラクぅ~なるときのここには、詞や曲や編曲のこれらを創作した者たちと彼らが創作するときのそこへと向き合う心持ちのそれに深く尊敬の念を抱く、これが在る。併せて、詞と曲と編曲のそれぞれへの、作品全体への、創作した者たちへの、創作した彼らのその心持ちへの、感謝だ。
が、こういったことを確りと感じることができたのは、“コロナ渦”というこのなかで“生きた自分”が居たからで、同時に、その自身の“生活”を通して“体験”したこれがあったからこそ、と言える。
自分の周り何処かに、それまでの習慣とは異なる何かが起こったり入り込んできたりしたときに、これについ反応して、異なる何かのそれによって自身がもつエネルギーが削がれてしまう、そういった事態となることもあるこれは、人としては多かれ少なかれあって当然で、仕方ないように思う。もちろん、これも“あきらめの仕方ない”ではなく、人として在る以上はどうしようもない、という意味でだ。が、そんなんで、自身がもつエネルギーが削がれていってしまっているようなときも、これを“悪い”とばかりに受け止めてはならないじゃぁないのかなと。自分自身の恐らく内側の何処かなのだろう、そこに在る自身のもっているこれをちゃんと見つめてあげれば、それまでの習慣においてだけでは決して気づけなかったこれを知って、これを想い、これを思う、そうしたことにも出会えるんじゃぁないのかなと。
この2年間をこんな具合に振り替えって、ここから先に在る“いま一瞬一瞬”も併せて思うならば、たとえ自分にとって都合の悪いこれに遭遇したことのこれを否定したり消したりできなくても、それは“悪い”ばかりではない、そこではこれまでに気づけなかった何かに出会える機会もきっと在るのだと、いや自分自身の内側の奥深くのその何処かにこそ潜んで在るのだと。そして、もしもこいつに気づけたならそれは案外幸運なことであるかも知れないと、そんなふうに思いながら人生を歩んでいくことはできないだろうか。“人生”とは少しばかり大袈裟であったかな? が、私はそんふうに思うのだけれど。
であるなら、何かに出会えるその機会を逃すまいとする、そうした心持ちだけは常に備えておきたいと思うよね。
あらら、なんだか話がどっ散らかり始めたので、今回はそろそろこのあたりで止めておこう。
が、してみると、コロナ渦にあって、武満徹作曲・編曲の「混声合唱のための『うた』」のこれが収められたCDを部屋のラックから取り出してきて、『うた』という作品の“うた”を聴いた私は、たいへん幸運であったというわけだな。
そして、“音楽”の凄さ、“うた”の威力、これらについても考えさせられたわけで、いやぁ~、有り難い。
私めが創る“うた”のこれにも、今後なんらか変化があるやも、なんちゃって。
♪
風よ 雲よ 陽光よ
夢を運ぶ翼
遙かなる空に描く
「希望」という字を
・・・・
「翼」
(武満徹:詞)より
♪
「今日の一曲」シリーズの第112回、今回は、指揮者・山田和樹と東京混声合唱団による演奏のこれを収めたCD「武満徹・全合唱集」より、武満徹作曲・編曲「混声合唱のための『うた』」を取り上げて、諸々語らせていただいた。
いつも通りの長文かつ悪文で、恐縮です。
読者の皆様には心より感謝申し上げます。
いま一瞬一瞬に潜んでいる幸運を逃すことなく歩んでいただけたなら、とそんなことをお節介にも皆様にも願いながら、今回はこれにて失礼させていただきます。
ありがとうございました。
コメントをお書きください