「今日の一曲」シリーズの第114回です。
すっかりご無沙汰しております。私めはどうにか生きております。
世の中は新型ウイルスのこともあれば紛争や戦争など争い事のこれもあって、いずれも未だ止まず、といったところですが。
さて、こうしたことに影響されてか否かは定かでないものの、数年前から“コイツもなかなかイイ”と思って、以来、繰り返し聴くようになったCDがありましてね。で、それがこれを聴いていると、何故か、“生きようとすること”の大切さを、殊、より強く感じるのですよ。特に今日この頃の私は・・・。
そんなわけで、今回は、そこに収録された一曲に絡めて諸々語らせていただきたく存じます。
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《ざわついているなぁ》
なんだかねぇ~、ここへきて更にまた世界がざわついているなぁ。違うな。ざわついているのは私如き者の内なる何処かなのだろう、きっと。・・・地球規模の、その地球環境や気候変動に関わる問題の様々を考えては、人類はいまそこへと思いを一つにしてこれに取り組まなければならないときじゃぁないの? 何をやっているのだか。日本のマスコミの多くが報道するますますの偏りと思慮深さに欠けたこれらにもあきれるが、それより、人が営み続けてきたその生活を壊しては人の命までも奪う、こうした争い事は世界のあちらこちらで起きていて、未だ止まない、と、この事実こそどうしたものか? ま、でも、こんなものか。これまでもそうだけれど、ときに人類は愚かな選択を繰り返してしまう。・・・ってなことを考えるのだな。
ぅん~・・・?
あっ、いや、“考える”などというところへは至っていないな。独りで勝手に愚痴っているだけだ。単に、自身のざわつきを抑え込もうとしているだけかも。私なんぞ、争い事やマスコミ報道のこれらを批判できる立場にナイもの。世間様の役になどロクに立っちゃぁいないのだから。
とまぁ、多少の反省もするのだよ。
で、こんなことを自覚しては、部屋のレコードラックやらCDラックやらを覗き込むわけだ。
こんなであるときも、というより、こんなであるときこそ、音楽はイイ(必要)。
《コイツもなかなかイイ》
昨年末だったかにも書いたことだけれど、ここ1年半ほどは、ショスタコーヴィチやプロコフィエフ、ストラヴィンスキーや武満徹といったところの作品を聴くことが多くなった。でなければ、バッハだ。以前にも増してこれらを聴くことが多くなったということだ。
が、今日は、シベリウスかな。
シベリウス(1865~1957年、フィンランド)というと、彼が書いた作品のなかでも私めが好みなのは主には交響曲で、特に、「交響曲 第2番」はお気に入りの一曲だ。
(*シベリウス作曲「交響曲 第2番」については、第25回(2017/03/19 公開)で様々語らせてもらいました。)
ここ数年のことだ。あるCDに収録された作品のその演奏を聴いてからは、コイツもなかなかイイ、と思ってね。自ずとこの作品を好んで聴くことが多くなった。
この作品に出会った最初は、明確な記憶として残る限りでは、18か19歳の大学に入学したばかりの頃で、が、何か少し物足りなさを感じる、そんな印象をもった。その後も演奏者が異なるもので何度かこの作品を聴く機会はあったのだけれど、少し物足りない、といった印象はそのままだった。
なんだろうなぁ? イイ感じで聴いていたはずが、その割に、演奏を聴き終わった後の満足感や充足感らしきものの、これが無いのだよね。
いまにして想うと、聴いていた18・19歳から30歳頃にかけての私の側にこそ何らかの問題が在ったのかも知れない。
で、そんな具合でいると、そのうちに自然とこの作品を聴く機会までを失っていた。記憶を辿っては、20数年間にも渡って聴く機会が無かった、ということになるのだけれど、まさかね。記憶などといったものは大部分が頼りないものでしかないから。恐らくは、その後も何度かは聴いているのだけれど、少し物足りない、という印象の方が勝ってしまって、で、記憶として留めていないだけのことなのだろう。
いまから4年ほど前だ。ふらり何かのついでにたまたま立ち寄ったCDショップで、「シベリウス」と書かれた見出しの、そのラックに並ぶCDの一枚を手に取った。20年近く前にリリースされた盤のリマスター盤(2017年に再販された盤)だった。
1分ほどその場に立ち止まっていただろうか、ジャケットやら帯に書かれたそれを眺めて買うか買うまいかを考えた。結局は購入したのだけれど。そう、ここに収められた演奏が、“コイツもなかなかイイ”と思わせてくれたものの正体だ。
シベリウス作曲「ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品47」。
ヴァイオリン・ソロは諏訪内晶子、サカリ・オラモ指揮、バーミンガム市交響楽団の演奏で、2002年6月に収録されている。チャイコフスキー・コンクールで1位となったそれからは11~12年くらいした頃の諏訪内晶子、指揮者サカリ・オラモも30代後半の年齢でフィンランドからイギリスへと拠点を移したばかり、両者ともに、ますますこれから、といった頃の演奏だ。
《まったく以て心地好い》
CDを買ったその日のうちに我が部屋に戻っては早速これを聴いた。
いやぁ、何処をどう切り取ったとしても、その一瞬一瞬に在る音が心地好い!“完璧”などと言っては決してならないけれど、音の一粒ひと粒、それが起こす音の対流、リズム、テンポ、フレーズ感、更には残響までも、いずれもが心地好く届く。「シベリウスのヴァイオリン協奏曲がこんなにも心地好く感じるとは・・・」というのがその最初の感想だ。満たされた感じがした。
以来、すっかり、シベリウスのヴァイオリン協奏曲への印象が変わった。
際立つのは、諏訪内晶子のヴァイオリン。メカニック的テクニックと表現的テクニックのそれぞれが優れていることに加えて、その両テクニックのバランスがこれ以上ない、というくらいに良い。あっ、いや、私如き者がテクニック云々を語るは失礼かつ無礼であることは承知しているのだけれど、言わずにはいられない、というほどに凄いと感じるし、感動的だし、まったく以て心地好いのだよ。
きっと、指揮者のサカリ・オラモとも、バーミンガム市交響楽団とも意思疎通が十分に成されていてのことだろう。シベリウスという音楽家について、シベリウスのこの作品について、解釈のこれを、諏訪内晶子も、サカリ・オラモも、バーミンガム市交響楽団の演奏者それぞれも、深く追求し、またそれを互いに共有し合えている、それが演奏から感じられる。ま、私の勝手な妄想も含めての感想だけど。
作曲者のシベリウス自身は、このヴァイオリン協奏曲を書いていく過程で随分と苦戦を強いられたらしい。自身もヴァイオリン演奏を得意としていたはずなのにね。むしろ、得意だったからかも。当時シベリウスは生活に余裕がなく、やや焦ってか、この作品の初演・発表を急いだようだ。そのためかどうかは分からないけれど、初演(1904年2月)でのその成果は不評だった。初演後に一部を書き直し改訂したという話もある(改訂後の初演は、1905年10月とされる)。
この作品がヨーロッパ各地で評価されるようになったのは初演から約30年後のこと。ヴァイオリンの名手ハイフェッツがこの作品をレコーディングしたことで広く認められるようになったとのことだ。
その名手ヤッシャ・ハイフェッツの愛器がストラディヴァリウスの「ドルフィン」で、“あぁ”と思わず独りでうなずいてしまった。つまりは勝手に独りで納得したわけで、まったく以て心地好い、その理由がもう一つあったのだった。
このことはCD付属の解説書で知ったのだけれど、このCDに収められた演奏の、そのときに諏訪内晶子が手にしていたヴァイオリンが、なんと、「ドルフィン」だったのだよね。諏訪内晶子のもとに「ドルフィン」が届いてから1年半といった頃だったようだ。と、ここでまた、この名器を使いこなしているふうな諏訪内晶子とは、やはり、ただ者ではない、という感じがしてくる。いやいや、これも私如き者が分かるような事柄ではないのだけれどね、そんな想いにさせられるような「ドルフィン」の音だということ。兎にも角にも、このCDの、シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」を聴いていては、ヴァイオリン・ソロのその音の響きにも魅了され続けてしまう。ときに優しく、ときに軽快に、ときに力強く、ときに静かに、ときに躍動的に、ときに味わい深く、ときに愛らしく、・・・といった具合だ。
もちろん、シベリウスが書いた3つの楽章のそれぞれにも作品自体がもつ表情が色々にたっぷり在って、これによっても引き出されて、諏訪内晶子が奏でる「ドルフィン」のその音と響きが様々な表情を魅せてくれているのだと思う。
《生きようとすること》
と、まぁ、還暦も過ぎたいま、最近の、その今日も含めて、私めはこんなふうに心地好い想いで聴いているのだけれど。
だから、分からないよね。
何か一寸したきっかけで見方や感じ方なんて変わってしまうのだから。それまでに経験したそれをもとに、目の前のこれをどう受け止めるかで、それは発信する側もだけれど、受け取る側もそうで、その“一寸で変わってしまう”のだから。ぅん~、“分からない”よね。
生きて、生活を実践して、何らかを体験して、これを経験にして重ねていくとは、そりゃぁ簡単ではなく多分にややこしくもあるのだけれど・・・辛いことも悲しいこともあるしね・・・、でも、生きて経験を重ねていくことによって新たに生じる“一寸で変わる”、“分からない”などのこういったことこそが、恐らく、面白いのだろうなぁ~、深いのだろうなぁ~。
ならば、先ずは、“生きようとすること”のこれは大切なのではないのかな。
その大切な機会を簡単に無責任にも奪ってしまう、未だ止まぬ争い事なんぞは、やはり、あってはならないこと、というように思うのだけれど。ま、それぞれの人の、人類の、一つひとつの選択がそうそう単純でないのも事実だけれど。それでもね。
何を語ってんだって?
今回ここでご紹介しているCDの、シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」のこれを聴くと、シベリウスのこの作品からも、諏訪内晶子のヴァイオリンからも、サカリ・オラモとバーミンガム市交響楽団の演奏からも、“生きようとする”そのエネルギーやら覚悟を強烈に感じてね、心地好くも、聴く度にこんなことを思ったりする、って話。
ホント、この盤から聞こえてくる演奏を聴いていては、“生きようとする”そのエネルギーを分けてもらえている感じがするのだ。「生きようとすることって大切だな」って、還暦を過ぎたオジさんだって「まだまだ生きなきゃ」って、少しずつ力が湧いてくるのだよ。
「今日の一曲」シリーズの第114回、今回は、シベリウス作曲「ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品47」を、諏訪内晶子&サカリ・オラモ&バーミンガム市交響楽団の演奏のこれを2002年6月に収録したCDからご紹介させてもらいつつ、併せて、これに絡めて諸々語らせてもらった。
*いつもよりは短めに済んだかな? が、長文であることには変わらず、たいへん恐縮です。最後までお読みくださいました読者の皆様には心より感謝申し上げます。
*皆様の、日々の営みの幸せと内なる平穏の、これらを心よりお祈り申し上げます。
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