2023年、今年最後の「今日の一曲」シリーズです。
10年以上にはなるでしょうね。ここ何年も、毎年、年の瀬を迎えると、ベートーヴェンの「交響曲第9番 ニ短調 作品125『合唱』」やジョン・レノン&ヨーコ・オノの「ハッピー・クリスマス ~戦争は終わった~」などを聴くのが、もう、お決まりのようになっていまして。またここ数年においては、大晦日に、これらの曲をまとめて聴くことも恒例行事になりつつありまして。
で、今年はこの曲も加えて、年末(大晦日)を締めくくろうと思います。
「今日の一曲」の第118回、今回は、その曲とこれを収録した盤をご紹介しながら、いつもの通り、諸々語らせてもらいます。
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《“不滅”に反応》
頼りない記憶を辿っては、“不滅”という単語の、これに反応してのことだったように思う。
「カール・ニールセン・・・知らないなぁ」
まだ大学に通っていた20歳頃のことだ。現在から数えるなら40年くらい前のことになる。
その通っていた大学の図書館で、ある日、シベリウス(フィンランド、1865~1957年)のことを調べていたのだよね。高校3年生のときに大いに影響を受け、以来、好んで聴くようになったシベリウスの交響曲。特に第2番。
いや、少し違うな。暇を持て余して大学の図書館でさしたる目的もなく書籍のあれこれをあさっていたのだ。で、何とも無しに、シベリウスの事と併せて、シベリウスと同世代の音楽家って誰がいるんだろ? といったことも調べているとたまたまだったように想う。そのうちに“不滅”という単語が目に入ってきて、続けて、“カール・ニールセン”という名前を認識したのだった。
「不滅?・・・交響曲第4番。ふぅ~ん、デンマークの作曲家なんだ。1865年生まれ。・・・ということは、おぉ、シベリウスとぴったり同い年生まれ!」
な具合だったように想う。
きっと、実際には、シベリウス→同世代→カール・ニールセン→ニールセンの主な作品→交響曲第4番→不滅、といった順でこれらを認識したはずなのだけれどね。でも、“不滅”という単語がそこに在ったからこそで、我が視線が“不滅”と記されたそこへと焦点を合わせたからだと、そういった感触が記憶としては強く印象付けられているのだな。
(*シベリウスに関しては、第25回(2017/03/19公開)と第114回(2022/06/01公開)で諸々語らせてもらっています。)
《“不滅”のイメージ》
そも“不滅”とはどんな意味だったかな?
この“不滅”という単語で想い出すのは、私らの世代であるなら・・・野球好きであればかも知れないけれど・・・、長嶋茂雄氏がプロ野球選手としてプレーをした最後の日、その引退セレモニーで、後楽園球場に押し寄せた大勢のファンを前に、グラウンドのダイヤモンド内中央(ピッチャー・マウンドの付近)に立つスタンドマイクより「我が巨人軍は永久に“不滅”です」と発した、これではないだろうか。“不滅”という言葉の前に「永久」という言葉まで付け加えられて。私が中学2年生だったか中学3年生だったかの、その年の秋(10月)のことだ。
また、クラシック音楽ファンであれば、ベートーヴェンの交響曲第7番の第2楽章だろうか。これをワーグナーが「“不滅”のアレグレット」と呼んだとか。
その“不滅”という単語・言葉についての印象だけれども、この背景には何らかの危機が迫る状況の事物が常に潜んでいるかのように感じられてしまうのだな。いま在る危機的状況によって私(私たち)が強く願うこれはいま消え掛かっているけれど、決して消えてしまうことはない、いつまでも在り続けるのだと。危機的な状況に抗うが如く自身(自身ら)が大切に思うこれは未来へ向けて消えることなく続いていくのだと、そうした強い願いも込められてこそ表れる単語・言葉、そういった印象をもつ。
一方、類似する単語・言葉に“永遠”というのがあるけれど、こちらはどちらかと言うと、そこには幾らかばかりかでも可能性の方が優って感じられて、そこへの希望やあるいは奇跡を期待する前向きに捉えた何か少しキラキラした事物を想い描く、そんな印象をもつ。
いやいや、いずれも、まったくもって私如き者が勝手なる感覚でイメージして謂っているに過ぎない。
ちなみに、三省堂新明解国語辞典(第6版・・・ちょっと古いけれど)によれば、
・不滅:いつまでも無くならないこと。不磨。
・永久:(動作・状態などが)(ある時点から)無限に続くこと。永世。
・永遠:(過去・現在から)未来に至るまで、時間を超越して無限に続くこと。無窮。
とある。
《聴きたいのに・・・》
ところがだよ、大学生だったその当時においては、なかなかそのニールセンの作品を聴くことができないのだった。
当時は、FMラジオ番組を事前にエアチェックしておくも、テレビガイドなんぞを注意深く覗き見るも、街のレコード店を巡り歩くも、交響曲第4番はおろか、ニールセンの作品のどれ一つとも出会い聴く機会など無いのだった・・・第95回と第116回で語ったコープランドのとき以上に情報を得ることが難しかった・・・。そう、当時は、20世紀初頭および20世紀前半の作品のこれらを聴くことが然程容易ではなかったのだよね。
そりゃぁ、当時においてもニールセンの作品を収録した盤はあったはずだ。が、日本国内に広く流通していることはなかった。どうにか手にしたいと思って都内の割と大きなレコード店も何件か当たったのだけれども、とうとう手に入れることはできなかった。併せて、テレビやラジオからもニールセンの音楽を聴く機会はなかった。
大学を卒業すると、一応は社会人らしく職にも就いたのだけれど、最初に勤めたそこは・・・度々この「今日の一曲」シリーズでも語らせてもらっている通り・・・大半の職員が本来の職務を忘れ、派閥争いのここにばかり力を注ぎ明け暮れる、そんな職場で。派閥争いのどちら側にも付かないでいた私は、くだらない争い事に日ごと神経を磨り減らしていくようになってしまい、で、なかなか聴くことのできない音楽を追いかけ続ける余裕もなくなっていたのだろう、先ずは巷において直ぐに聴くことのできる音楽や直ぐさま手に入る盤を優先に、これらから、磨り減らしつつあった自身の神経を補修してもらおうと、そうした音楽を求めるようになってしまった。言い訳染みているけれど、そんなこんなで当時においては結局のところ、ニールセンのことは・・・他にもコープランドや武満徹なども同様に・・・放置したような恰好となってしまったのだよ。
《世界規模・地球規模の危機》
これは私の主観だ。・・・世界中へと拡がって猛威をふるった新型コロナウイルスの感染は、2023年12月現在の日本においてその脅威はだいぶ収まりつつあって、飲食店や観光地などでも人々の往来は“コロナ渦”と言われていたより前の頃と近い状況になってきている。が、依然として感染への警戒を手放しに緩める状況にはなく、他の感染症や未知なる感染症のことも併せて考えるならば、むしろ、世界中でこうした細菌やウイルスによる感染のリスクは高まってきているらしいのだな。
加えて、世界のあちらこちらで起こっている紛争やら戦争やらの暴力および武力による争い事は一向に止む気配がなく、わざわざ新たに始める輩もいるくらいで。
更には言えば、急激な気候変動とこれに伴う自然災害や環境の問題、経済的成長・利益への余り在る追求によって生じている様々な格差とその格差の拡がり、またこれらに乗じて起きている搾取の問題などもあって。
そしてこれらの問題は、いずれも、世界規模・地球規模の問題で、世界各国と世界の人々の協調によって解決することが求められ叫ばれてもいるというのに。が、いま、人々の暮らしは、その世界規模・地球規模の危機的状況の最中にあって、このために人々の暮らしの混迷さと不安定さはますます増してきてしまっている。・・・このことは「今日の一曲」シリーズで度々繰り返し書いてきたことだけれど、私には世界がこんな具合に見えていて。何というか、全うに生きようとする人々こそ、その人々から希望といったものが薄らいでいってしまっているかのように感じるのだな。
ところが、皮肉なもので、世界規模・地球規模の危機的状況にもある昨今において、急に、と思うほど、ニールセンの曲が演奏される機会が増えたのだよね。
それは日本国内においてもで、演奏会のプログラムに取り入れられたり、演奏会でのこれを録音・録画したものがラジオやテレビから流れてきたり、なかでも、「交響曲第4番 作品29 『不滅』」と、これに続く「交響曲第5番 作品50」を聴く機会は一番に増えたと言っていいだろう。
《第一次世界大戦と重ねて》
カール・ニールセン(デンマーク:1865~1931年)が交響曲第4番の創作に着手したこれより少し前、第一次世界大戦が勃発(*第一次世界大戦:1914年7月~1918年11月)。これによってヨーロッパ中が混乱の渦へと巻き込まれていった。中立国を謳っていたデンマークではあったけれど、貿易の滞り、品不足とインフレ、失業などといったことは避けることができず、人々の暮らしは不安と困窮の一途を辿っていた、という。
『不滅』と題した交響曲第4番について、ニールセン自身は、「『不滅』という題は、曲の内容を暗示するだけで、直接的に音楽でこれを表現しようとしたわけではない」と述べているようだ。つまりは、『不滅』をテーマにした標題音楽ではなく、あくまでも“交響曲”ということなのだ。
ただし、“不滅”を取り上げたことについては、こうも述べているらしい。「人間は不滅でありたいという願望をもち、そのため生命は不滅であろうとする意志をももつのであるけれど、音楽も生命に似ていて、この曲は偉大な芸術と人間の魂が不滅であることを強調している」といったようなことを。
(*ニールセンが述べたとするこれらは、幾つかの資料(日本語訳がされたもの)から私個人が総合的に解釈して綴ったものです。ニールセンが実際に述べた文言を正確に記載したものではありません。)
「交響曲第4番 作品29 『不滅』」の初演は、まだ第一次世界大戦が続く1916年2月1日、デンマークのコペンハーゲンで、ニールセン自身の指揮で演奏された。
この曲で、ニールセンは、名の知れた作曲家たちがそれまでに培ってきた作曲技法を十分に踏まえながら、が、新たな音楽への挑戦を試みることも忘れなかった。
比較的分かりやすいところで謂えば、“調”の概念を取り払っていること(*例えば、曲名の表記で、「交響曲○番 変ホ長調・・・」などのような表記を見かけることは割と多いと思いますが、この作品ではこういった調の表記がありません)。また交響曲は4つの楽章から成るという形式も捨てて単一楽章の楽曲として曲を完成させていること。他、楽器編成では2組のティンパニ(ティンパニ奏者2人)を用いるなどを試みている。
第一次世界大戦によって疲弊しきっていた民衆・聴衆の人々は、ニールセンのこの幾分か挑戦的でもある『不滅』と題した交響曲第4番を大いに歓迎したという。結果、音楽家・作曲家としてのニールセンの評価はこれを機に高まり、その名がヨーロッパ中へと拡がっていくきっかけにもなったらしいのだな。
『不滅』と題した交響曲第4番は、ニールセンが第一次世界大戦という出来事のこれに抗うが如く、ここに人間の生命に宿る真なる強さや偉大さ(あるいは魂と呼ばれるものの存在)を民衆・聴衆にも感じ取って欲しいと願って届けようとした音楽なのだと、そんなふうに言えるかも知れない。
恐らくは、これと似通った解釈もあって、第一次世界大戦最中の当時と、ここ最近の世界規模・地球規模の危機的状況のこれとを重ねて、それで、あらためてニールセンの楽曲、殊、交響曲第4番(あるいは交響曲第5番)が演奏される機会が増えている、ってことなのだろうね。
《この響き、さすがですねぇ》
おっと、肝心なことを忘れていた。
私が所有する盤についてご紹介していなかった。
私が持っている盤は、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮で、サンフランシスコ交響楽団に依る演奏を、1987年11月にデイヴィス・シンフォニーホール(サンフランシスコ)で録音したものだ。
が、一寸ばかり残念なのは、先述の通り、録音がされた直ぐ後の、その当時に出された盤ではないってこと。2017年に再版されたCDだ。
これ、実は、第116回(2022/11/19公開)でご紹介したコープランド作曲「クラリネット協奏曲」の盤と一緒にインターネット通販より購入した盤だ。
ニールセンの楽曲を収録した盤を選ぶに際しては、ネット検索するより先に、私の頭の中には数名の指揮者と幾つかのオーケストラが候補として元々あって、ほぼここから絞り込んで選んだ。
指揮者のブロムシュテットはアメリカ生まれのスウェーデン人、現在96歳。いまも現役で活躍している指揮者だ。ご紹介の盤に収録された演奏の当時は60歳くらいかと思う。いまの私と近い年齢だ。
その指揮者ブロムシュテットが音楽監督として就任するより前から共に音を創り上げてきたのが、サンフランシスコ交響楽団。
カール・ニールセン作曲「交響曲第4番 作品29 『不滅』」という楽曲の大凡の楽曲技法や構成については先に述べた通りなのだけれど、私個人は、ニールセンの楽曲の好さや素晴らしさの一番はオーケストレーションにあるのではないだろうか、と思っている。
この楽曲においても先ず耳に入ってくるのは、力強さ、迫力、スピード感、壮大さ、輝かしさ、といったところで、次いで、繊細さ、優しさ、静けさ、儚さ、不気味さ、なども曲中から感じられるわけだけれど、こうした全てが、巧みなオーケストレーションによって生まれ表現されている、と思うのだな。
オーケストラで演奏される音楽のその醍醐味が余すことなく詰め込まれていて、またそれが整然と詰め込まれてもいて、聴く者に難解な印象を押しつけることなく、各楽器の音そのものを活かし合い生じたその響きを以て聴く者を心地好く魅了してくれる、のだよなぁ。
そして、この盤に収録されたブロムシュテットとサンフランシスコ交響楽団の演奏は、ニールセンのその巧みなオーケストレーションを明瞭な音でこれを体現していて、この楽曲がもつ魅力を存分に表現して届けてくれているように思う。
もしも、ブロムシュテットさんとサンフランシスコ交響楽団の奏者たちが私の目の前に居たなら、
「この響き、凄い、素晴らしい、さすがですねぇ」
などと言って伝えるだろう。
少し、褒め過ぎか?
ま、若干のケチを敢えて付けるとすれば、音がスマートに綺麗過ぎる、ってことかも。もう一寸だけ鈍く渋くあっても、とそのくらいだ。
十分にニールセンの音楽を面白く味わい得ることのできる盤だ。・・・いや、あくまでも私個人の感想だ。
(*この盤(CD)には、併せて、「交響曲第5番 作品50」も収録されています。)
《願いや祈り、感謝に換えて》
私自身は、この曲を、第一次世界大戦当時のことや、昨今の世界規模・地球規模の危機的状況の色々、あるいは『不滅』という題について、これらを意識して聴くことは殆どと言っていいほど無い。
ただただ我が耳へと聞こえ届く音たちをそのまま聴く、それだけだ。
ぅん~、そのように心掛けている、ってのもあるかもね。他の曲を聴くときもそうだけど。
その方が、面白さが聴く度に次々と発見できる気がするのだな。
とは言え、この曲を聴き終えた後、大抵は、世界規模・地球規模の危機的状況のこれに抗おうとする気持ちなども湧いてきて、でもそれだけでなく、いや、それよりも、願いや祈りといったものの力の偉大さを信じたくなる、そうしたエネルギーを与えてもらっているように感じるのだ。また、当たり前のように可能となっている事物に対しても、決して当たり前ではない、有り難いことなのだ、と感謝する気持ちも。
先から述べているように、細菌やウイルスによる感染リスクの高まり、紛争やら戦争やらの暴力および武力による争い事、急激な気候変動とこれに伴う自然災害や環境の問題、経済的成長・利益への余り在る追求によって生じている様々な格差とその格差の拡がり、またこれらに乗じて起きている搾取の問題、これら世界規模・地球規模の問題として在る危機的状況は当然のことながら私の身近なところにも存在する問題でもあって厄介事でもあって、これらが時に、場合によっては、私の周囲に居る人たちからも次々と希望を奪っていっているように、そう私には映っているわけで。
ただ、こんなときに、嗚呼、とそれだけで立ちすくんでいるのもヨロシクナイ気がして・・・。
で、そんな思いもあって、2023年の10月中旬頃からライヴ活動を再開し始めた私。・・・尤も、現在は高齢の母の具合も見守りながらの生活だから、コロナ渦前のように、とまではいかないのだけれどね。
まぁ、様々を思うと、日常においては私自身も、数々の問題や厄介事に抗おうとする気持ちのこれが、遂、抗い切れないように思えて萎みそうになったり、私の内の何処かに残っていた僅かな希望も消えそうになったり、とそんなことはあるのだよね。
それでもだよ、自分にできること、自分にもできそうに想えることは行動してみるのだ、と考えた次第で。併せて、自分自身に言い聞かせ続けている次第で。
特に、ライヴをする、そのステージに立ったときは、萎みそうになった思いや消えそうになった希望を、願いや祈りへと、あるいは感謝へと変換して、かつ、変換した願いや祈りや感謝を力強くも穏やかに届けようと、そう心掛けて歌いギターを演奏するようにしている。・・・なんちゃって、想い描いたように上手くいくコトなんてなかなか無いのだけれどね、それでもね。
こうした心持ちに至った一つには、ニールセンの『不滅』と題した交響曲第4番を繰り返し聴いているうちに私の内の何処が動かされたからで、この楽曲から受けた印象がヒントになってのことなのじゃぁないのかなぁ、と感じている。
ここ何年も、毎年、年の瀬を迎えると、ベートーヴェンの「交響曲第9番 ニ短調 作品125『合唱』」やジョン・レノン&ヨーコ・オノの「ハッピー・クリスマス ~戦争は終わった~」などを聴くのが、もう、お決まりのようになっていて。またここ数年においては、大晦日に、これらの曲をまとめて聴くことも恒例行事になりつつあってね。
で、今年は、カール・ニールセン作曲「交響曲第4番 作品29 『不滅』」も加えて、年末(大晦日)を締めくくろうと思う。
「今日の一曲」シリーズの第118回、今回は、カール・ニールセン作曲「交響曲第4番 作品29 『不滅』」を、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮でサンフランシスコ交響楽団に依る演奏の、これを1987年11月に収録した盤(但し、2017年に再版されたCD)よりご紹介しながら、併せて、諸々語らせてもらった。
皆様、よい年をお迎えください。
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*いつもの通りの長文と悪文のブログで、これを最後までお読みくださいました読者の皆様には心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
*2024年、どうか、皆様それぞれにおいて“好きコト”の多い年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。
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