今日の一曲 No.121:シベリウス作曲「交響曲 第6番 ニ短調 作品104」(パーヴォ・ヤルヴィ&パリ管弦楽団(シベリウス交響曲全集)より)

「今日の一曲」シリーズの第121回です。

今回は、高校生の頃にド嵌りした或る交響曲をきっかけに、以来、関心をもつようになった作曲家の作品を、数年前に少々無理をして買った交響曲全集(3枚組CD)より一曲を取り上げてご紹介します。

この作品、日本国内ではコンサート等またはテレビやラジオでもなかなか聴く機会がなく、が、なんとも、温かく優しさに溢れた交響曲でして・・・。で、一寸もったいないなぁ、との思いもあって選曲しました。

そんな次第で、盤の紹介や曲の紹介とともに、いつものように私事のあれやこれやとも併せて語らせてもらいます。

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《ド嵌(はま)りした交響曲》

中学生の頃だ。綺麗なメロディをかく作曲家だなぁ、と少し興味をもったのがきっかけだったかと。

その綺麗なメロディとは・・・実際には少し後になってから知ったのだけれど・・・、交響詩「フィンランディア」の中間部に表れるメロディのそこだけを切り取ったもので、これに歌詞(日本語訳の歌詞?)も付けられていて。ぅん~、確か、音楽の教科書だった気がするのだけれど(あるいは所属していた課内(授業内)クラブの合唱部で配布された楽譜だったか)、その載っていた譜を追いながら歌ったのが最初だったように想う。

「シベリウス、フィンランドの作曲家かぁ。綺麗なメロディだなぁ」

と声にして呟いたかどうかまでは不確かだけれど、黒の詰め襟制服を着る私のそれとともに残る記憶では、こんな感じ。

 

時が経過して、高校2年生もそろそろ学年末という頃。

その頃には両親から月々にもらう小遣いが貯まると物静かそうなオジさんが独りで営む自宅近所のレコード店へと向かうことがほぼ習慣になっていた私は、この日は何故か分からないけれど、シベリウスのレコードを買うんだ、と決めてレコード店へと向かった気がするのだ。当時はシベリウスについて大して知識もなかったから、シベリウスの作品のどの楽曲を聴きたい、というところまでに至っていなかったのだろう、ただ、シベリウスの曲を、とだけだったように想う。

店内に入ると、「シベリウス」と書かれたプレートを頼りに、その辺りのラックに丁寧に入れられ並べられたレコード盤の一枚一枚を探っていった。ラックから盤を半分ほど指先で素早く引き上げてはレコードジャケットやら帯に書かれた文字を数秒間で見極めて元に戻す、そうした動作をいつも通りに繰り返していたはずなのだ。

そして、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、フィルハーモニア管弦楽団演奏の「交響曲 第2番 ニ長調 作品43」のこれに手が止まったのだねぇ。

この盤については、だいぶ前になるけれど、「今日の一曲」の第25回(2017/03/19公開)で紹介させてもらった次第で、このとき手にした盤の、そこに収録されたシベリウス作曲「交響曲 第2番 ニ長調 作品43」に、特に高校2年生~3年生の頃のその間にド嵌りして、その後も暫くの間、20歳代前半頃に掛けてシベリウスの作品を追いかけるようになるのだな。

もちろん、ド嵌りしたこのレコード盤は現在でも私の部屋のレコードラックに、謂ったら、お気に入りのなかでもまた最高のお気に入りの一枚として置いて在る。

 

《聴く機会の少なさ》

クラシック音楽ファンの方はよくご存知かと思うけれど、ジャン・シベリウスは西暦1865年~1957年を生きたフィンランドの作曲家。

日本国内で広く多くの人に知られているシベリウスの作品といえば、交響詩「フィンランディア」になるだろう。クラシック音楽を聴く人たちの間でなら、バイオリン協奏曲(「今日の一曲」の第114回(2022/06/01公開)で紹介した曲)を知る人も多いかと思う。

 

ところで、シベリウスの交響曲となると、私が20歳前後の頃(40年くらい前)では、日本国内で聴くことができたのは「交響曲 第2番・・・」くらいだ。この「・・・第2番・・・」は当時からテレビやラジオからでも聴く機会は割と多くあった。だけれど、他はなかなか聴く機会がなく、シベリウスに嵌っていた私でさえ気をつけてチェックしていて「交響曲 第1番・・・」がFMラジオで流れたのを一度聴いた、そんな程度だ。

ここ9~10年くらいの間の、最近?では、ま、変わらず「交響曲 第2番・・・」は人気があるのだろうね、聴く機会は比較的多くあって、次いで「交響曲 第1番・・・」かなぁ。また、「交響曲 第4番・・・」もコンサートのプログラムに取り入れられることが僅かながら増えてきているように思う。

 

あっ、説明が後になってしまったけれど、シベリウスの交響曲は全部で7作品。

と、「交響曲 第3番・・・」、「交響曲 第5番・・・」、「交響曲 第6番・・・」、「交響曲 第7番・・・」は?

ん~、先ず以て日本国内で待ち受けていてはこれらの作品を聴く機会は無い。

因みに、私が20歳代の頃とは違って現在はインターネットなるものも普及しているわけだけれど、このインターネット上を探ったところで7つの交響曲全部を全曲通して良い音で聴けるものはほぼほぼ無い。

 

だからなのだよぉ。一寸無理をしたのだ。

「シベリウス交響曲全集」なるものを数年前に買った。

ま、40年越しの思いもあったからね。

 

《私が選んだシベリウス交響曲全集》

シベリウスの交響曲全集といっても、指揮者とオーケストラ、あるいは録音時期や録音方法など、これらを比べては迷うところのものが幾つかあって、全集を買おうと思い立ってから実際に購入へと至るまでには少々・・・4~5日くらいかな?・・・日を要した。

そんな優柔不断気味の私が選んだのは、パーヴォ・ヤルヴィ指揮でパリ管弦楽団が演奏するこれを収録した3枚組CDで、2012年10月~2016年3月に掛けてパリのサル・プレイエルで録音されたものだ。

正直、若干ながら疑念らしきものもあったのだけれどね。フィンランドの作曲家シベリウスの作品にパリ管弦楽団というこれは相性としてどうなのだろうか?と。が、最終的にこの全集(盤)を選んだのには、指揮者パーヴォ・ヤルヴィ(エストニア出身)のシベリウス研究(探求)の成果が如何なるものかをどうしても感じてみたくなったからで・・・。

 

CD3枚の構成は以下の通り。

Disc1:「交響曲 第1番 ホ短調 作品39」、「交響曲 第4番 イ短調 作品63」

Disc2:「交響曲 第2番 ニ長調 作品43」、「交響曲 第5番 変ホ長調 作品82」

Disc3:「交響曲 第3番 ハ長調 作品52」、「交響曲 第6番 ニ短調 作品104」、「交響曲 第7番 ハ長調 作品105」

 

この全集を通しての私如き者の感想を申し述べるならば・・・7つの交響曲のどれもが好い(良い)感じの音で収録されている。そこには、パリ管弦楽団に長きに渡って受け継がれているその独自のものと思える音と響きに加えて、これがパーヴォ・ヤルヴィのシベリウス研究(探求)の成果なのだろうと感じさせる何か新たに生み出されたそうした音たちも在って、さすがパリ管弦楽団、といった演奏が収められている。なかでも「交響曲 第4番・・・」は殊好演に思う。

 

つまりは、購入前に抱いていた若干の疑念らしきものは完全に払拭されたわけだ。

 

パーヴォ・ヤルヴィのシベリウス作品へのアプローチはクラシック音楽と呼ばれるこの分野では高く評価されているようだけれど・・・2015年シベリウス・メダル受賞・・・、この交響曲全集においても、へぇ~そうくるか、といった部分も色々とあって、パーヴォ・ヤルヴィのシベリウス研究の成果とパーヴォ独自の解釈が面白く味わえる。

交響曲の第2番なんて、先にも触れた、私が大切に持っているお気に入りのレコード盤の、カラヤンとフィルハーモニア管弦楽団に依る演奏のものとは、特に第4楽章では全くテンポが違うのだからね。いやいや、ホントに面白い。

 

《優しさに溢れた交響曲》

先に述べた、交響曲第4番は殊好演に思う、という私の感想から、今回の「今日の一曲」で取り上げる一曲は「交響曲 第4番・・・」とするのが流れとしては良いのだけれど。でも、ほら、私、捻くれた性格だから・・・。

 

ってなことで、「今日の一曲」の第121回として今回取り上げる一曲は、当然の如く先から語らせてもらっているパーヴォ・ヤルヴィ指揮でパリ管弦楽団演奏のシベリウス交響曲全集からにはなるけれど・・・そして一曲を選ぶに当たっては今回も随分と考えたのだけれど・・・、「交響曲 第6番 ニ短調 作品104」をご紹介したい。

 

交響曲というと・・・私だけかも知れないけれど・・・、フルオーケストラ編成でもあることから、豪華、盛大、迫力、煌びやか、重厚、福與か、といったようなところへ印象付けられる作品が殆どに思う。もちろん、幾つかの楽章に分けられている作品では楽章ごとに表情を変えているのが大抵で、楽章によっては、軽やか、繊細、温かい、優しいといったところへ印象付けられるものもある。が、やはり、作品全体を通して印象付けられるのは、豪華、盛大、・・・といったものの方がずっと多いように思う。

シベリウスの作品で言うのであれば、「交響曲 第1番・・・」、「交響曲 第2番・・・」は、そういった交響曲の代表格と言えるだろう。この2作品においても、繊細さ、温かさ、優しさを感じるこれは部分的には在るけれど、作品全体を眺めては力強く、エネルギッシュな、その盛大で迫力のある音たちの方が印象としては強く残るかと。

また、「交響曲 第4番・・・」は、漆黒の闇に覆われた極めて内省的な作品、などと評される曲で、よって、煌びやかさなどは皆無であるけれど、深く重厚なその音の鳴りの迫力が印象付けられる交響曲に思う。

 

で、「交響曲 第6番 ニ短調 作品104」なのだけれど、私はこの作品を聴く度に、「なんて温かくて優しさに溢れた交響曲なんだろう」と思うのだな。

似たところで謂えば、第3番もどことなく民族的かつ牧歌的な温かさを感じる交響曲ではあるけれどね。ただ、第3番はどちらかというとフィンランドの気候や風土を魅せる風景画といった感じ。あるいは、その風景とともに過ぎたいつかを懐かしんでいるような情景が浮かぶ。

が、第6番は、フィンランドの自然豊かな風土・風景を背景に、土地の長老か物事をよく知るお婆さんかが幼い子どもたちを前に古くから伝わる民話やおとぎ話を語っているかのような・・・例えば私の勝手なイメージでは、楽章ごと、その一夜ごとに語られる民話・おとぎ話にはそれぞれ話の意図に違いがあって、また各楽章内での曲の流れの変化は、語られる話の場面が展開され移り変わっていくそこに子どもたちが徐々に引き込まれていくような画が浮かんできたりするわけで・・・そうした人と人との優しげな様子も一緒に浮かんでくるのだよね。併せて、ポップな音も在ってか、これが現在から未来へと進み行く何らか希望みたいなものとして感じなくもないのだな。

 

作品自体は4つの楽章から成る交響曲。が、演奏時間は30分ほどの比較的コンパクトな交響曲だ。

この作品の構成的な事柄および作曲の技法等についても簡単にご説明申し上げよう(*付属の解説書を参考にしつつ、但し、できるだけ平易な言葉で記すとする)。

・・・初演は1923年2月19日、シベリウス自身の指揮でヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団に依って演奏されたようだ。曲の構成については、各楽章ともに19世紀の後半頃までに確立されてきた慣習的な形式(クラシック音楽において古典派やロマン派と呼ばれる作曲家たちが多く用いて慣習的になっていった形式、例えば「ソナタ形式」とか「ロンド形式」など)からは離れた構成になっているとのこと。またこれは調性においても同様で、この作品は「ニ短調」としながらも慣習に基づく調的なコントラストを配置すること(例えば「ハ長調とト長調」、「ニ短調とヘ長調」のような調に依ってコントラストを明確にしてメリハリのある展開にする)は避けられている、ということらしいのだな。・・・

だからなのか、ちょっと不思議な、柔らかな音の展開を感じる、そういった部分が所々に在って、これもまた「なんて温かくて優しさに溢れた・・・」と思わせてくれている要因の一つなのかも知れない。

 

兎にも角にも、シベリウス作曲の「交響曲 第6番 ニ短調 作品104」は、優しさに溢れた交響曲なのだよ。

 

 《出会い、そのご縁と幸運と優しさと》

前回の「今日の一曲」の終盤では『音楽との出会い』について少々語らせてもらったのだけれど、これとも少し重複する面があるカモ、だけれど、が、また一寸だけ異なる側面から語らせてもらおうと思う。

 

人気の高いもの、流行となったもの、こういったものは社会的な主観の塊にもなって、時には、個人においてはその個人が何だか知らない間にも(または自覚が足りていない場合でも)触れる(出会う)機会が勝手に訪れるようなことがあり得るのだけれど、それ以外のものは大抵の場合個人自らが自身の意志を自覚して行動していかなければ触れる(出会う)機会は得られない、そのように思う。

そして、殊、自らの意志と行動に依ってそれまで未知だった何らかに触れる(出会う)機会を得たときは・・・きっと偶然のようで偶然ではなく・・・その機会を大切に育てていくことを行えば、生きていく上でも掛け替えのない「ご縁」となって、また「ご縁」は僅かながらでも「幸運」を感じる機会を次に与えてくれる。「幸運」という、心に触れる何らか好い(良い)なぁ、と思える感覚を与えてもらうと自然と「優しさ」を感じて、与えてもらった「優しさ」を自ずと、それも丁度好い具合にして、また与えてくれた何か(誰か)へ返したいといった思いが湧いてくる、そんなふうに考えるのだな。

 

そこそこの年齢を重ねながらも・・・還暦も過ぎているのにね・・・依然として未熟な私めは、そも「優しさ」とは何かを明確に答えることができない。「他者(他)を自然と思いやる気持ち(=他者への共感。ただし、他者にただ単に合わせるといったことでもなく、また他者からの見返りを見込むなどの駆け引きをする意図も全く無い)」といった程度は言えるにしても。

が、それでも、他者から届けられた言葉からや誰かが届けてくれた音楽を聴くなどのこれらから、「優しさ」を感覚的に感じる得ることはできる。

もう少しだけ謂えば、優しい、と確信できるほどの感触を味わう瞬間は在るわけでね。人のこういうところこそが、凄いなぁ、と思うのだよ。

 

話が散らかり始めているので、先程までの、シベリウスの話、音楽の話に戻すと・・・。

シベリウスの「交響曲 第6番・・・」のような楽曲は、現在の日本社会では目立たないものの一つではあるけれど、だからと言って、大したことではないと捉えてしまったり、それ故、触れないままの、知らないままの現状に留まり続けてしまったりするのではなく、未知の何かに触れて出会うことの可能性を自らが求めて、例えば10代から20歳代前半の私が追っていたシベリウスとのその縁によって現在に至っての私がシベリウスの「交響曲 第6番・・・」のような「優しさに溢れた音楽」に出会えたように、自らが求めて動いた先に出会えたそれがたとえ単なるたまたまの偶然のように思えても、好き(良き)ものに出会えたときの幸運のこれもちゃんと自覚してもっと大切にした方がいいのだろうね。

そして幸運にも、こんなふうに「優しさ」をもらい受けることへと繋がったならば、その分の「優しさ」を何処かへと、何かへと、または誰かへと返したい、といった思いはどうしたって自ずと湧いてくるもので。

私自身の音楽も、ライヴも、「優しさに溢れた」もの(・・・優しさのうちの一つには「ユーモア」も在ると考えている・・・)となるようにと尚も思ったりするのだけれど。とは言え、これが自然と表れるようでないとね。ま、自然と表れるようになるには、恐らく、だけど、日常の色々と一緒に、こうした一連の体験もそのうちの一つとして日々少しずつ積み重ねていくほかないのだろうね。

 

一方で、世の様々を眺めては、「優しさ」を感じ得うるこれはなかなか簡単ではない社会にますますなりつつあるように思う。争い事は依然止まないし、損得の駆け引きばかりが多過ぎるだろうとも思うし・・・。だからこそかな、僅かながらでも自身が自身の考えで自ら動き出すこと、それと、人の、凄いなぁ、と思うこれにも丁寧に目を向けて、こうしたことをもっともっと大切にすることが望まれるのかもね。・・・話が飛躍し過ぎて論理的ではなくなっているけれど。アハハハハ・・・。

ま、詰まるところ、他者への「優しさ」、自分の内深くへの「優しさ」、こういった「優しさ」をちゃんと常に持ち続けていられるような丁寧な姿勢・態度で居たいものだなぁ、という話だ。・・・「優しさ」ってちょっと余裕がなくなるだけで手放してしまいがちな、そういったところがあるようにも思うから。

 

はい、はい、またしてもわけの分からないことを語り始めております。

なので、今回はここまで。

 

「今日の一曲」シリーズの第121回、今回は、シベリウス作曲「交響曲 第6番 ニ短調 作品104」を、パーヴォ・ヤルヴィ指揮、パリ管弦楽団演奏の「シベリウス交響曲全集」(3枚組CD)より取り上げて、諸々語らせてもらった。

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*いつものことながら、長文かつ悪文の数々、読者の皆様にはご容赦いただきたくお願い申し上げます。